前回は「子どものほうが英語学習は有利か」というテーマについてお話ししました。今回は、小学校での英語教育の成否の鍵について考えていきます。
小学校における英語教育の成功の条件
結論を先にいうと、日本の小学校での英語学習の成否の鍵は、教育的工夫を通して、INPUT-POOR な環境を INPUT-RICH な環境に近づけることができるかどうかにかかっています。
INPUT-POOR 環境とは、日本で英語を第二言語として学ぶ環境です。このような環境では、母語(日本語)が生活言語であるため、英語は意識的な学習の対象になるものの、自然な形で英語を獲得することがむずかしいのでしたね。
一方、INPUT-RICH 環境とは、英語を日常的に使用する状況で第二言語として英語を学ぶというような、自然に英語を獲得できるような条件が整った環境のことだとお話ししました。
その2つの環境の違いを特徴づける観点が必要となりますが、その際に注目したいのが連載第2回目でふれた3つの「言語学習の条件」です。以下は、3つの条件と2つの学習環境の関係を示したものです。
この3条件については前回すでに説明した通りですが、ここでも改めて簡単に要約しておきます。
英語にふれること(language exposure)には、対象言語にどれだけふれたかという「量」の側面と、発達段階的にみて理解可能で有意味な言語にどれだけふれたかという「質」の側面があります。
英語を使うこと(language use)においても同様に、どれだけ対象言語を使用したかという「量」の面、そして自分に関連した内容に関してどれだけ言語を使用したかという「質」の面があります。
そして 英語を使わなければならない必要性(urgent need)は、当該言語を使用する強い必要性があるかどうかを問う条件です。
さて、INPUT-RICH な環境においては、生活の場、教育の場で英語が自然に使用されるため、圧倒的な量のexposure(英語にふれる機会)と圧倒的な量のuse(英語を使う機会)が保証されることになります。
言語使用者である子どもが実際に直面する場面は、彼らに関連性のあるものであり、結局、量が質を担保し、質の面についても保証されることになります。そして重要なこととして、言語を使用しなければ日常が成立しないという切迫した必要性 (urgent need)も存在するということです。
したがって、INPUT-RICH な環境では、子どもについていうと、自然な学習 ――自然に言語を覚えること――が可能となるのです。
一方、INPUT-POOR な環境とは、上の表の「?」が示しているように、どの条件も十分なかたちで満たすことができない環境のことを意味します。そこでは、概して、自然な言語学習というより、むしろ 「意識的な学び」――学校などでの言語学習――が優勢になる傾向が強くなります。
自然な学習という観点からすれば INPUT-RICH な環境が、子どもの場合、圧倒的に有利になるはずです。では、日本で英語を学習する際にどうすればよいか、という問題がでてきます。
文化適応の問題:日本で英語を学ぶことの意外なメリット
この問題に入る前に、国内の INPUT-POOR な環境が海外の INPUT-RICH な環境より、英語を学ぶ上で望ましい環境であるという意外な側面にもふれておきます。
例えば、父親の海外赴任に伴ってある5歳児が米国に移り住むことになるという状況を考えてみましょう。そして、そこで彼は10年を過ごすとします。最初の2〜3年は、英語が機能的に使えないということから、なんらかのストレスを経験することが予想されます。
次第に英語で自由に表現できるようになるでしょう。しかし、多文化社会の米国で生きていると、「きちんとした」英語を身につけることが、アメリカ社会に溶け込んでいく鍵となります。つまり、言語はコミュニケーションの道具というだけでなく、「アイデンティティーの標(しるし)」にもなりうるのです。
この男子は10年を米国で過ごす間にさまざまな乗り越えられない壁や疎外感など心理的な葛藤を経験することになるでしょう。その結果、「日本人として振舞うか」「アメリカ人として振舞うか」をめぐる “identity crisis” (アイディティティーの危機)という問題に直面する可能性があります。
筆者が勤務していた大学ではいわゆる「帰国子女」が多く、その中で上記のような経験をしている人たちも多数いました。文化的にも言語的にも「確たるもの」を持ち得ないということからくる「不安定さ」を抱えたまま、大学生になっている人たちがいるということです。
INPUT-POOR な環境では、幸いなことに文化適応に伴う深刻な問題は起こりません。安心できる場面で、英語を「コミュニケーションの道具」として学ぶことが可能なのです。
言い換えれば、英語を国際語として学習できるという環境があるということです。米国で英語を身につける際には、英語はアイデンティティーの標となり、きちんとした米国の文化規範に合致した英語を獲得しなければならないという心理的要求が強くなります。
米国規範からみてきちんとした英語が使えなければ劣等感すら覚え、それが上記の「不安定さ」につながるのです。日本で英語を学習する際には、国際的に通じる英語を身につければよく、随分気持ちが楽になるはずです。これは英語を学ぶ際のアドバンテージだといえます。
学習支援の必要性:教室を INPUT-RICH な環境に!
しかし、日本のような INPUT-POOR な環境では、自然に英語を身につけるという環境にはないため、 英語を意識的に学ぶ必要があります。そこで、「学習支援」が必要となるのです。学習支援と学習環境と年齢の関係については、次のようなことがいえると思います。
子どもであれば、INPUT-RICH な環境にあれば、自然に英語を獲得することが(基本的には)可能であり、学習的支援の必要性は弱いといえます。しかし、成人の場合は、よい言語環境が与えられるだけでは自然な言語習得はむずかしく、INPUT-RICH な環境においても学習的支援が必要となります。だから、米国に行って大学などの機関で英語を学習するのです。
日本のような INPUT-POOR な環境では、年齢に関係なく、学習支援が必要となります。自然に英語を覚える環境がないからです。INPUT-POOR な環境の強みは、上記のように文化適応の問題に直面することなく、国際語としての英語を学ぶ環境にあるということです。
しかし、ここでは残念ながら “The younger, the better.”(若ければそれだけよい)の仮説は、通用しません。自然な学習と意識的な学習を区別するなら、意識的な学習においては、成人のほうが子どもより有利であるという見方ができるでしょう。成人だと目的意識を持って英語学習に向き合うことができるからです。しかし、INPUT-POOR な環境のままでは、いくら意識的に勉強しても、なかなか使えるようにはなりません。
そこで、成人か子どもかを問わず、英語教育(学習)の効果を高めるためには、教室をどれだけ INPUT-RICH な環境にできるかが鍵となります。もちろん、英語圏での環境のようにはいかないまでも、たくさんの良質の英語にふれ、たくさんの英語を使い、そして英語を使っても白けない場を作る――英語を日常化する――ことができれば、実践的な英語力を身につけることができるでしょう。
ここでいう INPUT-RICH な学習環境とは、外国の国旗などが飾られ、コンピュータが配備され、ネイティブスピーカーが存在するという教室空間だけを意味するのではありません。もっと重要なのは、学習活動(エクササイズ)による場づくりです。
教科書の中の英語を学ぶのではなく、活動の中で、活動を通して英語を学ぶということです。児童や生徒が本物で、意味ある活動としてとらえ、自分事として参加できる活動を行うことで、INPUT-RICH な環境は創り出されるのだと思います。