世界卓球選手権でも多くの入賞という成績を残し、1988年のソウルオリンピックに出場した宮﨑義仁さん。卓球をはじめたきっかけは、「友だちが教室でやっていて、それが楽しそうだった」という純粋な思いからだったそうです。
はじめた当初はただ楽しい気持ちだけでしたが、中学3年生ときに経験したある出来事から真剣に卓球に取り組みはじめます。そこから一気に、世界の舞台までの階段を駆け上がっていきました。
宮﨑さんが選手として経験したこと、引退後に指導者として経験してきたこと、そして、卓球を頑張る子を育ててきた経験から、子どもたちが夢をつかむためのアドバイスをもらいました。
友だちの夢を叶えられなかった後悔
――宮﨑さんが卓球をはじめたのは、中学校1年生だったと伺っています。そのきっかけを教えてください。
宮﨑さん:
中学に入ったとき、お昼休みに友だちが教室で卓球をはじめたんですよ。それを見て、「楽しそうだから、オレにもやらせて!」と言ったら、「卓球部じゃないし、ラケットも持っていないからダメだよ」と言われてしまった(笑)。「だったら……」ということで、すぐに卓球部に入部しました。それが卓球との出会いであり、はじめることのきっかけでしたね。
その卓球部は部員が80人くらいいましたが、学校にある卓球台はたったのひとつだけ。当然、1年生は卓球台を使えませんから、最初は素振りとランニングしかやらせてもらえません。それに、先輩が練習する際の球拾いばかりでした。ですから、教室で友だちと楽しく遊ぶのが、当時における僕のなかでの卓球だったんです。
――遊びの卓球から、真剣に選手として取り組もうと思ったのはいつごろだったのでしょうか。
宮﨑さん:
それは中学3年生のときですね。全国中学校卓球大会における長崎県予選会の団体戦で負けたとき、チームメイトの友だちが「悔しい……」と言ってワンワン泣いているんです。聞いてみると、彼は「日本一になることを目標に練習を頑張っていた」と言うじゃないですか。
実際に彼は、県でシングルスのチャンピオンになるような腕前の持ち主でした。でも、全国中学校卓球大会には、団体戦で1位にならないとシングルスでも全国中学校卓球大会に出場できないという決まりがあった。わたしたちは団体戦で負けてしまったので、彼は全国大会に出られず、日本一になるという夢が潰えてしまった。それがあまりに悔しくて、人目をはばからずに泣いていたわけです。
その姿を見て、自分たちのせいで負けてしまい彼の夢を叶えさせてあげられなかったことに責任と後悔を感じました。ですから、長崎県予選で敗れた次の日から、その彼と一緒に毎日練習しはじめたんです。そこから、卓球の選手として真面目に競技に取り組みはじめました。彼がいなかったら、いまのわたしはありませんね。彼が泣いて、それに刺激を受けたことがわたしを変えたのです。
早朝ランニングで卓球に対する意識が変わる
――そこから宮﨑さんは一気に全国区でも活躍されるようになりました。なにか特別に取り組んだことはあったのでしょうか。
宮﨑さん:
泣いて悔しがった彼と一緒に地元の卓球センターに通うようになったとき、当時の長崎県で一番強い社会人の選手と話す機会がありました。そのときに、「これだけやったら絶対強くなるから、明日からやってみろ」と教えてもらったのが、早朝ランニングでした。「絶対に強くなれるから、ひとりで起きて、ひとりで走りなさい」とその人は言うんです。
わたしも感化されやすい性格ですから、次の日から朝5時半に起きて早朝ランニングを開始です。走ること自体は苦でなかったのですが、起きるのが嫌で嫌で(笑)。でも、強くなりたかったので7キロの道のりを辛抱して走り続けてみたんです。すると、そこから1年で県のチャンピオンになって、さらに1年後には九州地区のチャンピオン、西日本のチャンピオンになるくらいまで一気に強くなりました。
早朝ランニングは完全に習慣になったので、そこから毎日休まずに35歳まで続けましたよ。
――それは凄いですね、早朝ランニングのどんなところが良かったのでしょうか?
宮﨑さん:
走ること自体が直接的に卓球につながったというよりは、なんのために自分が走っているのかをしっかりと考えるようなれたのが大きかった。「自分が早朝から走るのは、卓球が強くなるためなんだ!」と思うようになったら、練習に向かう姿勢が自然と変わったのです。
ランニングを開始する前は、試合をやっても楽しければ良くて勝った負けたを繰り返していました。でも、ランニングをはじめたその日の練習から、「眠たいのを我慢して早朝ランニングまでしているんだから、ミスはできないし負けられないぞ!」という気持ちが強くなった。
いい加減に練習に向かい合っていた状態から、真剣に向き合い、粘り強く卓球に取り組むようになったんです。「卓球で自分の人生を切り開いていくんだ!」という覚悟を持てるようになれたのかもしれませんよね。「ここまでやっているんだから、負けるわけにはいかない」という気持ち。それは、凄く重要なことです。わたしの卓球人生をつくり上げたのは、まさに早朝ランニングでした。
中学校3年生から35歳まで、早朝ランニングを欠かさずにやったという宮崎さん。「ここまでやっているんだから、負けるわけにはいかない」。そう思えることで、卓球に取り組む姿勢が変わっていったと言います
休日返上で夢をつかむための技術を生み出す
――宮﨑さんと言えば、世界が驚愕したほどのバックハンドサービスを得意とされていました。そのサービスが生まれた要因はどこにありましたか?
宮﨑さん:
わたしは大学4年生の1年間、じつは卓球を一度辞めていたんです。でも縁があって、社会人でもう一度選手として卓球ができる機会をもらい、とにかく感を取り戻すために毎日練習に明け暮れました。
部の練習は日曜日が休みだったのですが、わたしは日曜日も朝から卓球場に行って、夜までひとりで練習です。でもひとりですから、サービスの練習くらいしかできません。それでも、途中で腱鞘炎になるくらいひたすらサービスの練習だけを日曜日にやり続けました。
それが1年半ほど続いたとき、試合でわたしのサービスを相手が取れなくなってきた。それが面白くなって、そのサービスにさらに磨きをかけていくと、相手はどんどん取れなくなっていきました。それで全日本のベスト4に入って、世界卓球選手権に日本代表として選ばれたというわけです。
そして次は、世界卓球選手権までの半年間めちゃくちゃ練習しましたよね。筋力トレーニングもそうですし、もちろん得意のサービスの練習も。すると、筋力がアップしていますから、サービスの回転に磨きがかかってもっと相手選手が取れないようなサービスを出せるようになったんです。
――そんな経緯があったのですね。
宮﨑さん:
日本に帰国すると、「七色のサーブ」なんて言われてテレビや新聞で取り上げられたり、講習会にも呼ばれたりするようになりました。そうすると、トレーニングの時間が少なくなりますよね。3週間もすると、サービスをしても世界大会のときのようなキレが出ない……。あっという間に、普通の選手に戻ってしまいました(笑)。
それから2年後に世界卓球選手権に選ばれたとき、もう一度トレーニングを頑張って筋力をつけたら、また以前のようなサービスのキレが戻ってきて世界選手権で活躍できたので、ソウルオリンピックに出場することができました。
わたしのサービスは、まさにトレーニングと技術が結びついた賜物でした。鍛えたときと鍛えていないときのボールは、同じ人間でも全然ちがうもの。わたしのサービスが生まれたのは、休みの日も使ってひとつのことをずっとひたすら粘り強くやり続けたからに他なりません。そこにプラスして筋力をつけたことによって、さらに磨きがかかった。だから、トレーニングの大切さは身に沁みて実感していますし、よく知っているつもりです。指導者になったいまも、「粘り強くトレーニングすることが結果につながるんだぞ」ということを伝え続けていますよ。
課題はクリアしたから終わりではない
――ひとつのことに集中してやり切ることが、結果を出す最適な方法だった。
宮﨑さん:
課題を見つけたら、とことんやり切ること。納得できるまでやり切ることがなによりも大切です。最高の見本は、張本智和選手(2018年1月の卓球全日本選手権において、14歳で史上最年少優勝を飾った)でしょう。いま流行りのYGサービスというのがあるのですが、データを取ると張本選手はそのサービスを試合で一度も使っていなかったということが判明したのです。わたしが「なぜだ?」と分析班に聞くと、張本選手はそのサービスが打てないというじゃありませんか。
張本選手が世界で戦うにはそのYGサービスが必要でしたので、すぐに練習を開始させるよう伝えました。すると、いまでは張本選手が勝負どころで出すエースサービスにまでクオリティを高めたんです。そうなるまで、ひたすら彼は練習を積み重ねたのでしょうね。
わたしが言いたいのは、できるようになったからそこで課題が終わるのではなく、さらにその上を目指すことの重要さです。できるようになっただけで満足するのではなく、突き抜けるまでやり抜くこと。それができたから、張本選手は世界で戦える選手に成長したのではないでしょうか。
わたしもそうでしたからね。最初は大学の1年のブランクを取り戻すためでしたが、その過程で生まれたサービスをさらに進化させることで、世界と戦うことができた。大変ですし、厳しいことでもあるのですが、その粘り強さがあれば絶対に強くなる。夢を叶えるために必要なことなのだと確信しています。
「課題はクリアしたからといって終わりにはならない。納得できるまでやり切ることが大切」と熱く語る宮﨑さん
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ひとつのことをやり抜き、やりとおしたからこそ大きな夢をつかんだ宮﨑さん。指導者になってからも、粘り強く、真面目に、真剣にものごとに取り組む姿勢こそが大事なこと。そして、そういうことの積み重ねが「強さ」になるのだと話してくれました。夢に向かって頑張る子どもに対して、親も粘り強く一緒に頑張ったり、応援したりすることが、子どもが夢をつかむための手助けになるのかもしれません。
■ 元卓球日本代表・宮﨑義仁さん インタビュー一覧
第1回:習い事としての卓球~頭の回転が速くなり、反射神経が向上~
第2回:子どもの“やる気スイッチ”を入れる方法
第3回:【夢のつかみ方】~突き抜けるまでやり抜くことで結果がついてくる~
【プロフィール】
宮﨑義仁(みやざき・よしひと)
1959年4月8日生まれ、長崎県出身。鎮西学院高校〜近畿大学〜和歌山銀行。長崎市立淵中学校に入学後、卓球部の友だちが教室で卓球をやっているのを見て、「楽しそうで自分もやりたい」と思い卓球部に入部。高校時代は九州地区で活躍し、大学時代に全国区、社会人になった以降は世界でも活躍。1985年の世界卓球選手権では団体3位、シングルス5位、ダブルス5位という成績を残した。1987年の世界卓球選手権ではシングルス9位、ダブルスで5位となり、1988年のソウルオリンピック日本代表権を獲得し出場。翌年の1989年に一度現役を引退し、ナショナルチームの男子コーチに就任。ナショナルチーム女子監督を経て、1991年には現役に復帰し37歳までプレー、2001年まで和歌山銀行総監督として活躍を続けた。同年に引退後は、ナショナルチーム男子監督に就任。2012年のロンドンオリンピックまで監督を務める。同年10月からJOCエリートアカデミー総監督となり、次世代のジュニア育成に力を注いでいる。試合のテレビ解説も行っており、分かりやすい解説が好評。公益財団法人日本卓球協会常務理事。
【ライタープロフィール】
田坂友暁(たさか・ともあき)
1980年生まれ、兵庫県出身。バタフライの選手として全国大会で優勝や入賞多数。その経験を生かし、水泳雑誌の編集部に所属。2013年からフリーランスとして活動。水泳の知識とアスリート経験を生かして、水泳を中心に健康や栄養などの身体をテーマに、幅広く取材・執筆。また映像撮影・編集も手がける。『スイミングマガジン』で連載を担当する他、『DVDレッスン 萩原智子の水泳 基礎からチャレンジ!』、『DVDレッスン 萩原智子のクロール 基礎からチャレンジ!』(ともにGAKKEN SPORTS BOOKS)、『呼吸泳本』、『明日に向かって~病気に負けず、自分の道を究めた星奈津美のバタフライの軌跡~』(ベースボール・マガジン社)などの書籍も多数執筆。