車いすアスリートとして第一線で活躍している土田和歌子さん。高校2年生の時の交通事故が原因で、それからの一生を車いすで生活しなければならなくなりました。そんな誰もが悲嘆に暮れるような状況も持ち前のポジティブ精神で乗り越え、今ではパラアスリートとして日本を牽引するまでに。土田さんが、トレーニングコーチでのちに結婚することになる高橋慶樹氏と共に取り組んできたアスリートとしてのトレーニングとは、どのようなものだったのでしょうか。
構成/岩川悟 取材・文/田口久美子 写真/榎本壯三(メインカットのみ)
挫折をバネにパラリンピックメダリストへ
――土田さんは、入院先の病院で障がい者スポーツと出会ったそうですが、最初から車いすマラソンでメダルを目指していたのでしょうか。
土田さん:
退院後は高校にも復学しましたが、同時に医師やリハビリの先生からすすめられ、障がい者スポーツをはじめるために東京都多摩障害者スポーツセンターに通いました。
最初は車いすの陸上競技をやったのですが、種目は車いすマラソンではありませんでした。最初に取り組んだ陸上競技では、1993年の徳島うずしお国体(身体障害者国民体育大会)で100m走とハンドボール投げで優勝。国体優勝後には、子どものときにバスケットボールをやっていたので、またバスケットボールをやりたくて車いすバスケットに転向しました。
そんなときに、座位で行うスピードスケート競技の「アイススレッジスピードレース」の講習会に誘われ、興味半分で参加したのです。わたしはそれまで車いすの陸上競技やバスケットボールをやっていたので、身体の使い方がうまかったのでしょう。アイススレッジにもすぐに馴染むことができ、ノルウェーから来ていたコーチの方からも「身体の使い方が上手だ」と褒められたことを覚えています。しかし、その時点ではまさかアイススレッジをやることになるとは思ってもいなかったのです。
アイススレッジの講習会から約1カ月後、「リレハンメルの冬季パラリンピックにアイススレッジの日本代表選手として出場しないか」と連絡がありました。講習会に参加しただけでいきなりの日本代表選手という話ですから、普通の人であれば不安な気持ちが強くなり、躊躇されるのではないかと思います。でも、わたしは持ち前の好奇心とポジティブ思考があったので、「いまあるチャンスは無駄にしたくない」ととらえアイススレッジの日本代表を受けることにしました。
そこで初めて、ポジティブ思考のわたしでも「これは大変だ!」と現実を知ることになります(笑)。なぜなら、わたしが日本代表として出場することになる1994年リレハンメル冬季パラリンピックの開催まで、たったの3カ月しかなかったのです。
――パラリンピックの3カ月前とは、時間があまりに足りませんね。
土田さん:
そうなんです(苦笑)。お話を頂いてからパラリンピックまでの3カ月間は、どんなトレーニングや練習をすればいいのかすらわたしにはまったくわからなかった。当時のアイススレッジは選手も少なかったし、それこそすべてが手探り状態でした。それでも、東京都多摩障害者スポーツセンターの職員の方にコーチングをしてもらい、陸上競技など他種目からヒントを得てトレーニングし、本番に臨みました。
結果は100m、700m、1000mで入賞はしましたが惨敗……。世界のトップレベル選手たちとのアイススレッジの試合も初めてですし、選手としての体づくりもできていないという準備不足もあったのでしょう。結果も踏まえて、とても後悔が残る大会でした。帰国後は「もう競技をやらなくてもいいかな」と思ったときもありましたが、なにせ私は負けず嫌いの性格。1998年に長野パラリンピックの自国開催が決まっていましたし、長野でリベンジしたいと決意したのです。
――長野パラリンピックでは、1500m、1000mで金メダル、500m、100mで銀メダルを獲得し、見事にリベンジしましたね。
土田さん:
自国開催でしたから、長野パラリンピック本番に向けて本格的に競技普及・強化活動が行われたことも好結果を後押ししてくれました。リレハンメルパラリンピックのときは男女1名ずつの参加だったため練習からずっと孤独な戦いでしたが、長野パラリンピックに向けてアイススレッジ選手も増え、仲間同士で励まし競い合い切磋琢磨しながら強化していくことができました。そういうことがあり、本番で勝つことができたのだと思っています。
夢に向かって二人三脚のトレーニング
――その後、アイススレッジを辞めて陸上競技に転向されたわけですね。 2000年シドニーパラリンピックでは車いすマラソンに出場され、銅メダルを獲得しました。
土田さん:
当時は仕事をしながら競技生活を続けていたのですが、海外の選手たちの中には仕事をせずにプロフェッショナルとして活動している選手が多くいました。そんな姿を目の当たりにして、そうした選手たちと同じ環境下に身を置かないとメダルは獲れないと気づいた大会でもありましたね。さらに、わたしは体が小さかったのでパワフルな肉体を手に入れるために肉体改造をする必要もあったのです。
ちょうどシドニーパラリンピックが終わった後、総理官邸主催の祝賀会で橋本聖子さん(アルベールビルオリンピック女子スピードスケート1500m銅メダル)とお話する機会がありました。それがきっかけになってプロに転向する機会を頂き、2000年から4年間はスポーツマネジメントを手がける会社に所属し、海外遠征を含め世界の舞台を中心に活動していくことができたというわけです。
――この頃、のちにご結婚される高橋慶樹さん(元スピードスケート選手)がトレーニングコーチとなっていらっしゃいますが、トレーニングを見てもらうきっかけは?
土田さん:
わたしたちの競技は三輪の車いすを使う陸上競技で、低い低姿勢で乗る三輪の車いすは乗り物としては自転車に非常に近いという特性があります。そして、この競技はスピードトレーニングが非常に大切。トレーニング内容としては、陸上競技場で行うスピードトレーニング、持久力のトレーニングとしてロードトレーニング、それからウェイトトレーニングといった3つで構成されています。それらを組み合わせてトレーニングメニューを作成していたのですが、さらなる肉体改造を実施するにはスピードトレーニングの強化が不可欠。そのためには、自転車競技の選手の協力が必要だと感じていました。
ちょうどその頃、彼(高橋慶樹氏)は橋本聖子さんの事務所に所属しており、コーチとして様々なアスリートを指導していました。彼の指導者としての経験と、元々自身がスピードスケート選手で氷上以外の練習に自転車トレーニングを取り入れていることもありました。自転車の技術を車いすの技術にもつなげられるし、トレーニングの方法にも詳しいのでアドバイスをもらいたいと思い、「練習を見に来てください」とお願いしたのです。しかし、最初はなかなかいい返事をもらえなかったんですよね(苦笑)。でも一度来てもらって、それから毎日練習に来てもらえるようになりました。初めて障害者スポーツを見て、そのスピード感に驚いたのだと思いますよ。それから、彼と一緒に2004年のアテネパラリンピックに向けて、5000mとマラソンの2種目に絞り、持久系のトレーニングを強化していきました。
――アテネパラリンピックは、5000m金メダル、マラソン銀メダルという素晴らしい結果となりましたね。トレーニングに関しては様々な情報がありますが、トレーニングを効率よく行うことが大事だと言われています。効率のよいトレーニングとはどうやればいいのでしょうか? スポーツをやっている子どもたちにアドバイスをお願いします。
土田さん:
いま、わたしは車いすマラソンから競技を転向し、トライアスロンで2020年の東京パラリンピックを目指しているのですが、トレーニングの効率を考えたときに自分の力に見合った運動が必要になります。トライアスロンはスイム(750m)、バイク(20km)、ラン(5km)の計25.75kmを競うわけですが、これらの運動に対して特性に合わせたトレーニングをバランスよく変えていくことでリフレッシュできますし、短い時間のなかで強度の高い練習を単発的に何回か入れることは競技力アップにつながります。しかし、その強度の高いトレーニングは頻繁にはでませんので、強弱をつけたトレーニングを行うようにしています。また、リカバリーとしてスイムトレーニングをやったり、いろいろなかたちでトレーニング効果を考え、総合的に体づくりを行うようにしています。
お子さんがなにか運動をしていて、トレーニングが欠かせないということも多いかと思います。強いトレーニングをただやっても体に負荷がかかりますし、故障の原因にもなるでしょう。やはり、その競技の特性と自分自身の体を考え、総合的にやるべきことを意識し効率よくやっていくことが重要になります。しっかりとコーチやトレーナーの指導を受けて、自分の体に合ったトレーニングを心がけてほしいですね。
もちろん、反復練習も大事なことですよね。いまはトレーニングも科学的に進化し、たくさんの情報やノウハウが溢れています。それでも、基本に忠実に同じことを繰り返すような地道なトレーニングもまた大切だと思っています。わたし自身もそうですが、そうした地道なトレーニングをやることもまた、成果をあげることに直結していると見ているのです。本当にいまはいろいろなトレーニング方法がありますが、その年代にあったやり方を考えないといけませんよね。子どもの頃はウェイトトレーニングに偏るのではなく、いろいろな動きを経験して、体の「使い方」をトレーニングしていくことも重要ではないでしょうか。
■ パラリンピック金メダリスト・土田和歌子さん インタビュー一覧
第1回:試練を乗り越えるための「ポジティブ・モンスター」という生き方
第2回:挫折を乗り越え夢を叶えた、私のアスリートとしてのトレーニング法
第3回:母から学び我が子に伝える、強い体をつくるバランスのいい食事
第4回:子どもには「経験」から自主性を伸ばしてほしい
【プロフィール】
土田和歌子(つちだ・わかこ)
1974年10月15日、東京都出身。高校2年時に交通事故で脊髄損傷を負い、車いす生活となる。翌年の秋にアイススレッジスピードスケートの講習会に参加し、約3カ月後のリレハンメルパラリンピック(1994年)に出場。4年後の長野大会では、1500メートル、1000メートルで金メダルに輝き、100メートルと500メートルでは銀メダルを獲得した。その後は陸上競技に転向し、2000年シドニー大会では車いすマラソンで銅メダル、2004年アテネ大会では5000メートルで金メダル、マラソンで銀メダルを獲得。2007年にはボストンマラソンで日本人では初めて優勝する。今年4月のボストンマラソンでは5連覇を達成。大分国際車いすマラソン大会では6度の優勝を誇る。現在は、競技を車いすマラソンからトライアスロンに変え、新たなチャレンジをしている。
【ライタープロフィール】
田口久美子(たぐち・くみこ)
1965年、東京都に生まれる。日本体育大学卒業後、横浜YMCAを経て、1989年、スポーツ医科学の専門出版社である(有)ブックハウス・エイチディに入社。『月刊トレーニング・ジャーナル』の編集・営業担当。その後、スポーツ医科学専門誌『月刊スポーツメディスン』の編集に携わる他、『スピードスケート指導教本[滑走技術初級編]』((財)日本スケート連盟スピードスケート強化部)などの競技団体の指導書の編集も行う。2011年10月「編集工房ソシエタス」設立に参加。『月刊スポーツメディスン』および『子どものからだと心白書』(子どものからだと心連絡会議)、『NPBアンチドーピング選手手帳』((一社)日本野球機構)の編集は継続して担当。その後、『スピードスケート育成ハンドブック』((公財)日本スケート連盟)の他、『イラストと写真でわかる武道のスポーツ医学シリーズ[柔道編・剣道編・少林寺拳法編]』(ベースボール・マガジン社)、『日体大ビブリオシリーズ』(全5巻)を編集。現在は、スポーツ医学専門のマルチメディアステーション『MMSSM』にて電子書籍および動画サイトの運営にも携わる。