あたまを使う/国語 2018.6.1
更新日 2025.6.23

なんば先生の国語教室【第8回】携帯デバイスはなにが問題か

難波博孝
なんば先生の国語教室【第8回】携帯デバイスはなにが問題か

こんにちは、難波です。
前回は、国語力の基盤となる「通じ合い」の力を育てるために、「共同注視」が大事であることをお話ししました。そして、そのことを微笑ましい母子の写真で感じていただきました。

共同注視とは、人と人とが同じものを見ることです。そこに、コミュニケーション三角形ができることもお話ししました。また、共同注視をしているときに、子供と大人とが近づき、体と声とで響きあうことによって、通じ合いが生まれるともお話ししました。

今回はさらに詳しく「親子のコミュニケーション」についてお話しします。

ライタープロフィール

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難波博孝

広島大学教授

広島大学学長特任補佐、大学院教育学研究科教授、博士(教育学)文学修士(言語学)
1958年兵庫県姫路市生。京都大学大学院文学研究科言語学専攻、神戸大学大学院教育学研究科国語教育専攻を修了、愛知県立大学文学部児童教育学科講師・助教授を経て、2000年広島大学に移り、現在に至る。
専門は国語教育全般(論理の教育、文学教育、コミュニケーション教育)
現在、小学校教員や中高教員との勉強会、企業研修のプロとの共同研究、西安交通大学・台北市立大学などとの共同研究を行う。
授業アドバイザーとして、年間30校園以上の幼小中高を訪問し授業を観察し、100本以上の学習指導案へのアドバイスを行う。全国大学国語教育学会全国理事、一般社団法人ことばの教育理事、言語技術教育学会理事、初等教育カリキュラム学会理事。2016年度読書科学学会研究奨励賞受賞。
著書に『ナンバ先生のやさしくわかる論理の授業―国語科で論理力を育てる−』明治図書(2018)、『母語教育という思想』世界思想社(2008)『楽しく論理力が育つ国語科授業づくり』明治図書(2006)、『臨床国語教育を学ぶ人のために』世界思想社(2007)がある。

親子が一緒に食卓を囲むことの大切さ

今、子ども食堂という存在が大変重要になってきています。最初多くの人々はこのことを経済的貧困の問題だけで考えていました。しかし、これは社会的貧困・精神的貧困の問題とも大きく関わっていることがはっきりしてきました。

今の時代は、親やそれに代わる大人たちはとても忙しいです。ご飯はなんとか作ることができても、なかなか一緒に食卓を囲むことができなくなっています。

けれど、子ども食堂に行けば、親と子が一緒に食卓を囲むことができます。人と食事と人 というコミュニケーション三角形ができるのです。子どもだけで食事をしていても、そこにはコミュニケーション三角形ができています。

アジア圏では、安く外食ができるところがたくさんありますね。朝も夜も、場合によっては平日の昼も、外で家族が外食している姿が多く見られます。一方で、アジア圏では、家族同士の結びつきはとても強いと言われています。

家でご飯を作らないと家族がだめになるわけではまったくありません。一緒に食卓を囲んであれこれ話すことで、コミュニケーションの三角形ができるのです。

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携帯デバイスで共同注視は可能か?

間に本が入れば読み聞かせ、間に食が入れば一家団欒。どこにでも、コミュニケーションの三角形が転がっています。間に歌を入れて、家族でカラオケに行くのもいいですね。

それでは、間にスマートフォンのような携帯デバイスが入ることでも、コミュニケーションの三角形はできるでしょうか。

その話をする前に、宿題を片づけておきましょう。前回の優しい光に包まれた親子が読んでいた絵本、みなさんわかりましたか?

そうです。安野光雅さんの『ABCの本』でした。
ページいっぱいに、アルファベットとそれにまつわる絵が描かれています。文字はアルファベットだけです。そのため想像が生み出され、言葉がいっぱい紡ぎ出されます。絵本は言葉が少ないからこそ、逆に言葉が生み出されるということをぜひ知っておいてください。

では、スマートフォンなどの携帯デバイスの話に戻りましょう。
携帯デバイスは、コミュニケーションの三角形を作るような共同注視の場を生み出し、そこに通じ合いを作り出すことができるでしょうか。

ここで考えなければならないのは、スマートフォンはテレビやパソコンよりもサイズが小さいということです。

「小さい」ということは、どういう問題があるかおわかりでしょうか。ここまでのお話を思い出してみてください。

そうです。テレビやパソコンはやろうと思えば複数の人で見ることができ、共同注視することが可能です。しかし、スマートフォンは共同注視ができません。つまり、コミュニケーションの三角形ができないのです。

乳幼児が一人でテレビやビデオを見ていても、そばに親がいたら、その親も一緒にテレビやビデオを見ることができます。たとえ見ていなくても、見ている可能性があると子どもは思っています。

しかし、スマートフォンは基本的に個人が使うものです。ですから、コミュニケーションの三角形は生まれようがないのです。

今まで、家族をはじめとした大人たちと一緒にコミュニケーションの三角形を作ってきた、本・テレビ・ビデオ・ご飯・歌……などなどが、すべて携帯デバイスに置き換わろうとしています。携帯デバイスはなんでも与えれくれるような気がしますが、共同注視の場は作ってくれません

なんば先生の国語教室第8回2

ネットとの向き合い方と家庭が果たす役割

実は私は、以前「子どもとインターネットを考える会」という団体を親(祖父母を含む)や学校の先生などと作り、子どもとスマートフォン(当時は携帯電話が多かったですが)について考えてきました。

そこでずっと訴えてきたのは、スマーフォンについて学校がしっかりと教育をするべきだということでした。これは、マナーとか危険とかだけではなく、どう使えば人生を豊かにしてくれるかということも含めて教育する、ということです。

日本はiモードを生み出し、かなり早くから携帯デバイスによるインターネットアクセスの文化が育っていました。もしそれがそのまま学校教育で取り入れられたら、きっと日本は今の中国やアメリカに負けないIT先進国になっていたでしょう。

ところが、日本の学校教育は携帯デバイスを一切取り入れず、古臭いコンピュータに固執してしまいました。また、そこでの教育もインターネットをどう使うかなどという教育はほとんどされませんでした。今でも教室からインターネットにつなぐことが禁止である学校が、ごまんとあります。

一方で携帯デバイスは進歩し、今では小学生はおろか幼稚園児でもスマートフォンを使うようになりました。学校という建前と家庭という本音の距離が恐ろしく開いてしまったのです。

今後、学校でインターネット教育が盛んになることに、私は悲観的です。プログラミングが導入されようとしていますが、これは、インターネットとどう向き合うかとは全く別のことです。今後も、インターネットについて学校で学ぶことは日本では難しいでしょう。

だとしたら、家庭でスマートフォンとどう向き合うかについて教育しないといけません。

共同注視の場が奪われること、そして、ネットリテラシーを学校で育てることが今の日本では難しいこと。このことを頭に入れて、家庭において携帯デバイスとどう関わるか考えなければならないのです。

全く与えないと、社会についていけないでしょう(私の大学にはテレビのバラエティ番組を全く見せてもらえない学生がいます。その学生は、周りとのギャップに長年苦しんでいました)。一方、与えっぱなしもいけないこともはっきりしています。

ではどうすればいいのでしょうか。そのことは、次回お話したいと思います。