あたまを使う/国語 2018.5.25
更新日 2025.6.23

なんば先生の国語教室【第7回】「通じ合い」を育む家庭力

難波博孝
なんば先生の国語教室【第7回】「通じ合い」を育む家庭力

こんにちは、難波です。

前回は、大学入試で求められている力が、実は「通じ合い」の力であることをお話しました。コミュニケーション力といってもいいのですが、単に言葉をやりとりすることだけだととられていはいけないので、以前使われていたコミュニケーションの訳語である「通じ合い」という言葉を使っています。

通じ合いとは、心と心を通じ合わせることです。極論を言えば、言葉が必要でなくなる状態が、通じ合っている状態と言えるでしょう。この文章を読んでいただいているみなさんは、心のなかに一番の親友や家族を思い浮かべてみて下さい。その人といるときは、言葉はそれほどいらないでしょう。

もちろん、通じ合っているという幻想もあるかもしれません。だから、場合によっては言葉はもちろん必要です。けれど、通じ合っているということは、本来は言葉がなくても心の通い路ができているということです。ですから、言葉が必要なときは、きっと、言葉を使ってくれるはずという信頼もあるでしょう。

ライタープロフィール

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難波博孝

広島大学教授

広島大学学長特任補佐、大学院教育学研究科教授、博士(教育学)文学修士(言語学)
1958年兵庫県姫路市生。京都大学大学院文学研究科言語学専攻、神戸大学大学院教育学研究科国語教育専攻を修了、愛知県立大学文学部児童教育学科講師・助教授を経て、2000年広島大学に移り、現在に至る。
専門は国語教育全般(論理の教育、文学教育、コミュニケーション教育)
現在、小学校教員や中高教員との勉強会、企業研修のプロとの共同研究、西安交通大学・台北市立大学などとの共同研究を行う。
授業アドバイザーとして、年間30校園以上の幼小中高を訪問し授業を観察し、100本以上の学習指導案へのアドバイスを行う。全国大学国語教育学会全国理事、一般社団法人ことばの教育理事、言語技術教育学会理事、初等教育カリキュラム学会理事。2016年度読書科学学会研究奨励賞受賞。
著書に『ナンバ先生のやさしくわかる論理の授業―国語科で論理力を育てる−』明治図書(2018)、『母語教育という思想』世界思想社(2008)『楽しく論理力が育つ国語科授業づくり』明治図書(2006)、『臨床国語教育を学ぶ人のために』世界思想社(2007)がある。

「言葉」と「心」のずれを学ぶために

私のプロフィールをごらんいただくとわかりますが、私は最初言語学を勉強していました。将来高校の国語の先生になるために、必要なことはコミュニケーションだと思い、世界の言葉のコミュニケーションを学びたくて言語学を専攻したのです。

しかし、その願いは見事に打ち砕かれました。大学で勉強したのは世界の言語ではあったのですが、ほとんどが言語そのものの分析ばかりでした。

私がやりたかったことは、言葉と心のずれのことでした。大学の勉強は、私がやりたいこととはかなり隔たっていたのです。私は言葉は伝わっているのに心が通じ合わないことを研究したかったのです。

その気持ちは、大学を出て大学院に行きながら高校の国語科非常勤講師をしているときにどんどん膨らんできました。授業で教えるためには、生徒の心をつかまなくてはいけません。また、教科書の文章も、言葉だけをつかんでいては読めません。言葉の裏にある意図や心情を読み取らなくてはいけないのです。

大学・大学院で研究していることと、学校や社会の現実とはかけ離れていると思いました。私が言語学の大学院を出た後、教育者になろうと思ったのはこの経験が大きかったのです。

言葉は決して心そのものではありません。けれど、言葉と心とは決して切り離せません。人と通じ合うにはどうしたらいいのでしょうか。

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共同注視がもたらすコミュニケーションの発達

私は、この写真にその答えがあると思っています。

なんば先生の国語教室第7回2(photo by maki.)

この写真は、私の知人の奥様とお子さんです。お子さんは、もうすぐ3ヶ月かな。しっかり母の懐に、カンガルーの赤ちゃんのようにすっぽり入っていますね。母と子の鼓動が響き合っているでしょう。呼吸も一緒に。

奥様とお子さんは同じ本を見ています。これを共同注視といいます。人と人とが同じものを見ること共同注視といいます。

実は、子どものコミュニケーションの発達は、人と人との関わりもありますが、なにより、この共同注視が重要だと言われているのです。

コミュニケーションでは、人と人とがただ言葉をかわすだけではなく、何かの話題について言葉をかわすことが多いでしょう。話題が共通していなければ、コミュニケーションは成り立ちません。

つまり、コミュニケーションとは下の図のような三角形をつくるのです。

コミュニケーションの三角形

共同注視は、赤ちゃんが大人と同じものを共通して見ることで、このコミュニケーション三角形の一番最初を作り出します。共同注視が、コミュニケーションの最初の一歩を記すのです。

共同注視の時、肌と肌がふれあい、鼓動と呼吸がシンクロすると、コミュニケーションは通じ合いになります。言葉をかわしながら、鼓動と呼吸が心を伝えてくれます。

赤ちゃんと関わることの喜びが、鼓動と呼吸と、そして声とで伝わるでしょう。このとき赤ちゃんは、言葉に心が加わったコミュニケーションを体験します。通じ合いが起きます。

だんだん成長して、一人で本を読むようになっても、文章を書くようになっても、幼いころの通じ合いの経験が生きてきます。文章を読んだり書いたりするときに、言葉とともに、呼吸や鼓動、声が感じられるようになっているのです。

呼吸や鼓動、声が感じられるから、ただの字面にしか見えない文章の向こうにいる、書いた人や読む人の心が想定できるのです。

親子で同じものを見て通じ合う喜び

同じものを子どもと大人が見る、共同注視。同じものが本である場合、それが読み聞かせになります。あの写真もそうでした。

同じものが砂場であれば、親子での砂遊びになります。お母さんがいっしょに砂をさわらなくてもいいのです。子どもは自分が遊んでいるその砂をお母さんが見ていることに喜びを感じています。そして時々「ねえ、こんなのできたよ、見て!」と目を輝かせて話しかけてきてくれるでしょう。

子どもと大人が、同じものを見る。同じものを通してコミュニケーションする。そこに通じ合いが生まれるのです。では同じもののなかに、スマートフォンなどの携帯端末は含まれるでしょうか。次回は、スマホについてお話したいと思います。

ところでひとつ問題を出します。あの写真の親子は、どんな本を一緒に読んでいるでしょうか。ちょっと見えにくいですが、ヒントは表紙です。