「ねえママ、見て」
持ち帰った仕事のパソコンを開いたとたん、描いたばかりの絵を持って子どもが寄ってきます。「ちょっと待ってね」と返すのは、今日これで何回目になるでしょう。家計簿をつけるときも、連絡帳に目を通すときも、自分の手を動かしている時間には、どこか後ろめたさがついてまわるものです。
ムーミンの作者として知られるトーベ・ヤンソンは、挿絵の仕事をする母のすぐそばで幼い日々を過ごしました。両親の暮らしぶりをたどっていくと、親が自分の仕事を続けながら子どもと過ごすためのヒントが、いくつか見えてきます。
目次
ムーミンの作者は、絵を描く母の膝の上で育った
トーベ・ヤンソンは1914年、フィンランドの首都ヘルシンキで生まれました。父ヴィクトルは彫刻家、母シグネは挿絵画家で、一家は仕事場と住まいを兼ねたアトリエで暮らしていたそうです。
シグネは本や雑誌の挿絵を描き、フィンランド銀行の紙幣のデザインも手がけた人でした。1929年から1962年にかけては、フィンランドの切手のデザインも任されていました。トーベは、歩けるようになるより先に、母の腕のなかで絵を描くことを覚えたと伝えられています。*1
🌿 ムーミン豆知識
ムーミンの原型とされる鼻の長い生き物は、一家が夏を過ごした群島の夏の家で、弟とけんかをしたトーベが描いた落書きだったといわれています。そのそばには「自由が最もすばらしい」と書き添えてあったそうです。

1. 仕事をする姿を、そのまま子どもに見せた
トーベは、母が来る日も来る日も、本や雑誌の挿絵、本の表紙、切手の図案を描く姿を見て育ちました。紙幣のデザインや雑誌の挿絵に取り組む母の膝の上には、幼いトーベの姿もあったといいます。7歳だった1921年には、お話に自分で絵をつけた作品も残しています。*2
シグネは、仕事をしながら娘をそばに置いていたことがうかがえます。親が何かに集中している姿は、子どもにとって、そばで見て学ぶ機会にもなりうるものです。
いまの暮らしなら、パソコンで仕事をするときや家計簿をつけるとき、好きな刺しゅうや読書をするときに、隣に子どもの席をひとつ用意してみるのもいいかもしれません。紙と鉛筆を渡して「ママもお仕事するから、一緒にお仕事しよう」と声をかければ、いつものテーブルが、親子で並ぶ小さな仕事場になっていきます。
❄ 研究でわかっていること
子どもの学び方をめぐる研究を幅広く整理したレビュー論文では、子どもは大人が実際にしている仕事や活動を、そばで熱心に見たり聞いたりしながら多くを学んでいると論じられています。こうした学び方は、文化によって重みづけに違いはあるものの、どの子どもにとっても大切なものだと述べています。(米カリフォルニア大学サンタクルーズ校の心理学者、バーバラ・ロゴフ氏ら)*3
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2. 忙しい日も、1日の終わりにお話があった
決まった収入でヤンソン家の家計を支えていたのは、母シグネの仕事だったそうです。1922年には、既婚女性が家の外で働くことを取り上げた雑誌の表紙に、シグネとトーベが母娘で登場したこともありました。
夏のあいだ、父と子どもたちはフィンランド湾の群島にある島で過ごし、シグネはヘルシンキに残って仕事を続けていたといいます。週末になると、食料や日用品を積んだボートを自分で漕いで、家族のいる島へ向かっていたとのことです。*4
そんな忙しい母ですが、弟が生まれるまでの数年間、トーベは毎晩のように絵本を読んでもらっていたそうです。のちに書いた自伝的な作品『彫刻家の娘』にも、ストーブの火を眺めながら母がお話を聞かせてくれる場面が出てきます。お話はいつも同じ書き出しで、とてもかわいい女の子がいて、その子のママはその子が大好きでした、と始まっていました。
働いていると、子どもと一緒にいられる時間の短さが気になる日もあるでしょう。長い時間を一緒に過ごせない日でも、「あなたが大好き」と伝わる短い時間なら、毎日のなかにつくることができます。
たとえば寝る前の5分に、その子が主人公のお話をしてみるのはどうでしょう。「むかしむかし、〇〇ちゃんという女の子がいてね」と始めれば、シグネがストーブの前で語ったお話と同じ形になります。
❄ 研究でわかっていること
子どもが3歳になる前に母親が働きはじめた家庭を対象に、約50年分・69の研究をまとめた分析があります。一部の例外を除き、母親の就労と、子どものその後の学力や行動上の問題とのあいだに、目立った関連は見られませんでした。家庭の状況によって結果が分かれた部分もあり、ひとり親家庭や経済的に苦しい家庭では母親の就労がよりよい結果と結びついていた一方、中流家庭やふたり親家庭、生後1年以内の就労などでは、好ましくない関連が見られた分析もあったと報告しています。(研究当時、米マカレスター大学の心理学者レイチェル・ルーカス=トンプソン氏ら)*5
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3. 嵐の日、父は冒険の相棒になった
トーベは父ヴィクトルのことを、ふだんは沈みがちなのに、嵐が近づくと別人のように陽気になり、子どもたちとの少し危ない冒険にもつきあってくれる人だった、と表現しています。父はフィンランド内戦で前線に立っており、その体験は家族にもさまざまな影響を与えたといわれます。いつも穏やかな家だったわけではないようです。
そうした冒険には、森の奥へのきのこ探しもあったそうです。『彫刻家の娘』には、夜中に消防車の音が聞こえると父が子どもたちを起こし、火事を見に駆けつける場面も描かれています。*6
森では、母シグネも、アリ塚の様子から方角を知る方法を子どもたちに教えていたそうです。毎年の夏を過ごした群島は、ムーミンの世界のルーツのひとつともいわれています。
もちろん、夜中の火事見物までまねる必要はありません。雨上がりの水たまりに長靴で入ったり、風の強い日に凧をあげたり、公園で少し高い遊具に挑戦する姿を見守ったりと、身近な遊びで充分です。「危ないからやめよう」と言う前に、親も「おもしろそう」と一緒にのってみる時間は、いまの暮らしでもつくれます。
遊びのなかの危険には、子どもが自分で予測しながら挑む「リスク」と、大人が取り除くべき見えない「ハザード」があるといわれます。こどもまなびラボの高さの感覚は5歳までに80%育つ。公園で「ダメ」を言いすぎていませんか?の記事で、見分け方がくわしくまとめられています。*7
❄ 研究でわかっていること
3〜12歳ごろの子どもを対象にした21本の論文をまとめた分析では、木登りや探検のような、少しドキドキする外遊びが、体をよく動かすことや友だちとの関わりといった、健康面で全体として前向きな結果と結びついていました。研究の質は「非常に低い」から「中程度」までと幅があり、質の高い研究がさらに必要だとしたうえで、こうした遊びの機会を後押ししていく必要がある、という結論でした。(カナダ・ブリティッシュコロンビア大学の傷害予防の研究者、マリアナ・ブルソーニ氏ら)*8
「仕事と愛」のそばで育った子ども
トーベ・ヤンソンの評伝の日本語版は、『トーベ・ヤンソン 仕事、愛、ムーミン』というタイトルで出版されています。「仕事と愛」は、トーベが生涯のモットーにした言葉とされています。
その言葉のはじまりは、母の膝の上にあったのかもしれません。トーベは、仕事をする母の隣で鉛筆を握り、夜はお話に耳をすませ、嵐の日には父と外へ飛び出して育ちました。ヤンソン家の両親は、自分の仕事を手放さないまま、その合間に子どもの居場所を残していたように見えます。
同じようにすれば子どもが作家や画家になる、という話ではありません。それでも、親が自分の時間を生きている姿を、子どもはすぐそばで見ているはずです。
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次に「ねえママ、見て」と呼ばれたら、手もとの作業を少しだけ子どもの側に向けてみませんか。「いま、ママはこれを書いているんだよ」と見せて、隣に紙と鉛筆を置いておくだけでもかまいません。それだけで、仕事の時間が、親子で並んで過ごす時間にもなっていきます。
FAQ(よくある質問)
Q. 仕事中に子どもがそばにいると、集中できません。
A. いつも隣に座らせる必要はありません。メールの返信や家計簿など、途中で手を止めてもかまわない作業のときだけ子どもの席をつくる、と決めておくと続けやすくなります。集中したい作業は、子どもが寝たあとや、預け先のある時間にまわしても大丈夫です。
Q. 働いていて、子どもと過ごす時間が少ないことが気になります。
A. 69の研究をまとめた分析では、子どもが3歳になる前に始めた母親の就労と、その後の学力や行動上の問題とのあいだに、全体として目立った関連は見られなかったと報告されています。寝る前のお話や、送り迎えの道での会話など、短くても毎日続けられる時間を大切にしていけるとよさそうです。
Q. 外遊びでケガをしないか心配です。
A. 遊具の破損や道路への飛び出しのように、子どもが予測できない危険は大人が取り除く必要があります。そのうえで、子どもが「ちょっと怖いな」と感じながら挑戦している遊びは、そばで見守るというのがひとつの目安です。年齢や体力に合わせて、無理のない範囲から始めると安心です。
(参考)
*1 Kallijärvi, M. (2018)|Tove Jansson’s mother self-portrait reflects the time that made Tove assess the role of women. Moomin Characters.
*2 Tove Jansson Official Website|Life in an artist’s studio. tovejansson.com.
*3 Rogoff, B., Paradise, R., Mejía Arauz, R., Correa-Chávez, M., & Angelillo, C. (2003)|Firsthand learning through intent participation. Annual Review of Psychology, 54, 175-203.
*4 講談社コクリコ(横川浩子) (2024)|「ムーミン」誕生の背景がわかる ムーミンママは原作者トーベ・ヤンソンの母親がモデル「少女ソフィアの夏」解説
*5 Lucas-Thompson, R. G., Goldberg, W. A., & Prause, J. (2010)|Maternal work early in the lives of children and its distal associations with achievement and behavior problems: A meta-analysis. Psychological Bulletin, 136(6), 915-942.
*6 Westin, B.|Viktor Jansson. Tove Jansson Official Website.
*7 こどもまなびラボ|高さの感覚は5歳までに80%育つ。公園で「ダメ」を言いすぎていませんか?
*8 Brussoni, M., Gibbons, R., Gray, C., Ishikawa, T., Sandseter, E. B. H., Bienenstock, A., … Tremblay, M. S. (2015)|What is the relationship between risky outdoor play and health in children? A systematic review. International Journal of Environmental Research and Public Health, 12(6), 6423-6454.









