2018.6.22

【父から教えてもらったこと】タップダンサー・HIDEBOHさん~客観的に子どもを見る視点を持つ~

【父から教えてもらったこと】タップダンサー・HIDEBOHさん~客観的に子どもを見る視点を持つ~

北野武監督作品・映画『座頭市』のエンディングで、圧倒的なインパクトを与えた下駄タップシーン。タップダンスに対する愛がたっぷり詰まった、水谷豊初監督作品・映画『TAP-THE LAST SHOW』。いずれも、タップダンスシーンの振付・指導を担当したのがここに登場するHIDEBOHさんです。HIDEBOHさんが、師匠である父にタップダンスを習いはじめたのは6歳のころ。HIDEBOHさんは師匠でもあった父からなにを学び、どう生かしてきたのでしょうか。

構成/岩川悟 取材・文/洗川俊一 写真/玉井美世子

礼儀・礼節に厳しい芸人道――

――両親がタップスクールをはじめたことで、タップダンスに出合ったということですが、師匠であるお父さんに認められたのはいつごろのことでしたか?

HIDEBOHさん:
芸事の師匠ですから当然といえば当然ですが、父はなかなか僕のタップを認めてくれませんでした。僕自身、タップダンスを6歳から習ってきていて、それなりに才能があると思い込んでいるわけです。それで、16歳のころからは自分で振り付けをつくって発表するんですが……「いいね」と言ってほしくても、いつまでたっても言ってくれない。「早くすごいと言ってくれ」と思っていましたけど、まったく言ってくれません。しびれを切らして、母に認めてほしいことを何度か伝えましたが、母からは「あんたはしつこい!」と逆に却下される始末です(苦笑)。結局、父が「プロとしてのスタートラインにきたね」と言ってくれたのは、22歳でニューヨークへと修行に行く前だったと記憶しています。

――厳しいお父さんだったのですね。

HIDEBOHさん:
かなり厳しかった(笑)。とにかく芸事には厳しい父でしたから。父は浅草の『松竹演芸場』に出演していた芸人で、ブラック&ケリーというコンビでしゃべりながらハーモニカを吹いて、タップダンスをするというタップジョッキーという芸をやっていました。ちなみに、相方の人が父のタップの師匠でもあるブラック福田さんで、父がケリー火口(本名・火口親幸)です。父のなかにある芸人道という掟のようなものは、とにかく徹底されていましたね。

――『松竹演芸場』というと、当時はツービートで活動していたたけしさん(ビートたけし)も出ていたと思います。HIDEBOHさんはむかしからたけしさんのことをご存じだったのですか?

HIDEBOHさん:
子どものころは、『松竹演芸場』の楽屋周辺をうろうろしていましたから、そこにたけしさんがいることはわかっていました。当時は、「あっ、ツービートだ!」という感じでしたけどね(笑)。それからときが流れて、25年後に『たけしの誰でもピカソ』という番組でたけしさんにお会いすることになりますが、もちろんたけしさんは僕のことを覚えていません。そして、ちょうどたけしさんが個人でタップを習いたいということで僕が教えることになったんです。そこで僕が、「じつは僕、ケリー火口の息子なんです」と伝えると、相当驚いていました。

――お父さんの芸人道について詳しく教えてください。

HIDEBOHさん:
芸人として守るべき掟といっていいのでしょうか、あいさつとか、遅刻とかはとにかくうるさく言われました。「いただきます」を言わないとご飯を食べさせてもらえなかったり、外から帰ってきて「ただいま」を言わなかったら、いつまでも怒っていたり。食事の場面で付け加えるなら、うちの家には食事する前に「『はい』という素直な心」「『ありがとう』という感謝の心」などの5か条を言わないとご飯が食べられない決まりがあった。それから、あたりまえと言えばそうですが……未成年者が守らなければいけないルールを逸脱したときもめちゃくちゃ怒られましたね(苦笑)。ただ、芸人道というだけあって、変わったところにもこだわりがありました

客観的に子どもを見る視点を持つ2

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お父さんではなく、「先生」と呼んでいた

――芸人道の変わったこだわりとは?

HIDEBOHさん:
僕は中学のころ、リトルリーグのほかに部活でバレーボールをやっていましたが、週3回夕方からはじまるタップダンスのレッスンに遅れるようなら「やめてしまえ!」と怒られていたんです。つまり、学校の部活のほうをやめろと言うわけです。それから、「これはいいんだ」と首をひねったのはファッションに関して。父は、ファッションに関してはほとんどなにも言うことがなかった。それは、ファッションは自分をつくる一部だからという理由です。高校生なのにパーマをかけたり、アロハシャツを着て学校へ行ったりしても怒られることはなかったですね。

――アロハシャツで登校とは、かなり派手なイメージがありますね(笑)。

HIDEBOHさん:
父のなかでは派手な格好はいいんです。「ファッションの乱れは不良のはじまりだ」と言われていた時代に、まったくなにも言わない。それどころか、僕のシャツを見て「いい色だね~」と褒めてくれたこともあった(笑)。おかげで、TPOに合わせてファッションに気をつけることを学ばせてもらいました。その格好が、その場所に合っているかどうか、いき過ぎているかどうか、人に言われるのではなく、身をもって知ることができましたから。

――一般的には理解するのが難しいのですが、自分の親が師匠というのはどういう感覚なのでしょうね。

HIDEBOHさん:
まわりの親子を見ていると、自分たちの親子関係が不思議でしたよね。小さいころから「先生」と呼ばなければいけなかったですから。「お父さん」と呼んだことはほとんどなかったと思います。いまでも母のことを、僕は「先生」と呼んでいます。ただ、親子であると同時に、先生と生徒の関係ですから、親からするとほかの生徒さんと平等に扱うわけです。「自分の子だから」という贔屓もなかったし、特別扱いされることもなかった。その点では、客観的にひとりの人間として見てもらえてよかったかなと感じています。甘えのない子ども時代が、ひとりの人間としての自立心のようなものをつくってくれたのではないでしょうか。

――自分のお子さんに対してはどうですか。

HIDEBOHさん:
僕と両親のような関係を築けているかどうかは、正直わかりません。とくにうちの子どもは女の子ですから、男親には理解できないところもありますしね。ただ、できる限り客観的に見て接してあげたいし、「自分の好きな道を選択できるように親が強制しないでいてあげよう」とはいつも思っています。そういう親の教育が、子どもが将来幸せになるベースになるはずですから。僕がタップダンサーの道を自分で選んで、こうして自由にやらせてもらって、いま十分に幸せですからね。それ以上のことはないと言ってもいいでしょう。

***
HIDEBOHさんは、厳しかったお父さんの芸人道から礼儀・礼節を学び、自分の人生に生かしてきました。HIDEBOHさんとお父さんは、師匠と弟子という特別な関係でしたが、自分の子どもを客観的に見てくれた両親に感謝していると言います。どうしても必要以上に過保護になりがちな子どもへの接し方。ときに、客観的視点に立った子育てができることも大切なのかもしれません。

■ タップダンサー・HIDEBOHさん インタビュー一覧
第1回:【夢のつかみ方】(前編)~あきらめずにしつこくの精神~
第2回:【夢のつかみ方】(後編)~ニューヨークで学んだ「自分アピール」の重要性~
第3回:【父から教えてもらったこと】~客観的に子どもを見る視点を持つ~
第4回:【習い事としてのタップダンス】~リズム感、バランス感覚、器用な動作をつくる神経系を養う~

【プロフィール】
HIDEBOH(ひでぼう)
1967年10月7日生まれ、東京都出身。本名、火口秀幸。タップダンサーである父・火口親幸の元で6歳からタップダンスをはじめる。1984年からはタップの指導者としてインストラクターに。1987年からタップダンサーを目指して本格的な修行を開始し、ニューヨークと日本を行き来するようになる。ニューヨークでは、タップダンサーのスターであるグレゴリー・ハインズの師匠である、ブロードウェイの振付師ヘンリー・ルタンに師事。1998年には、オリジナルのタップパフォーマンス形態「Funk-a-Step」を提唱して「THE STRiPES」を結成。2003年、北野武監督の『座頭市』のタップダンスのシーンの振付・指導で一躍脚光を浴びる。2009年には「LiBLAZE」という新しいグループを結成。2015年、コレオグラファー(振付師)のダンスコンテスト『Legend Tokyo Chapter.5』にて、4部門において受賞。2017年には、タップダンスシーンの振付・指導、そして出演もした水谷豊監督作品『TAP THE LAST SHOW』が公開された。父がつくったダンススタジオを継承した、『Higuchi Dance Studio』では、子どもから大人までにタップを含めたダンス指導をしている。

【ライタープロフィール】
洗川俊一(あらいかわ・しゅんいち)
1963年生まれ。長崎県五島市出身。株式会社リクルート~株式会社パトス~株式会社ヴィスリー~有限会社ハグラー。2012年からフリーに。現在の仕事は、主に書籍の編集・ライティング。