「習い事、させてあげたいけど」「あの子の家には知育玩具がたくさんあるのに」。ほかの家庭と比べて、胸の奥がきゅっとなる夜はないでしょうか。
世界中で愛される『ハリー・ポッター』の著者J.K.ローリングは、その第1作を、ひとりで幼い娘を育てる苦しい日々のなかで書き上げました。彼女はのちに、あの時期の自分にあったのは「お金をかけずに使える才能」だけだったと振り返っています。
物質的な豊かさがなくても、親が子どもに渡せるものは何か。逆境をはね返す力(レジリエンス)は、どうやって育つのか。ローリングの言葉と、子どもの発達研究から考えます。
目次
ベビーカーを揺らしながら、カフェの隅で
1993年、ローリングは結婚生活の破綻をきっかけに、生まれたばかりの娘とスーツケースふたつを持ってイギリスへ戻りました。貯金はすぐに尽き、週に70ポンド弱の公的な支援で暮らす日々が始まります。
彼女が2002年に寄稿したエッセイには、その時期のことが飾らずに書かれています。レジで小銭を数えたら缶詰ひとつ分に2ペンス足りなかったこと。娘の服はリサイクルショップでそろえ、靴は親戚に頼ったこと。娘が友だちの家に遊びに行くたび、きれいに飾られ、おもちゃがそろった子ども部屋を思い浮かべて、うらやましさをこらえたこと。
同じ時期、彼女は短い期間ながら深いうつ状態も経験しています。それでも、娘がベビーカーで眠っている時間を見つけては、カフェの隅で原稿を書き続けました。
このエピソードで注目したいのは、「それでも書いた」という根性の話ではありません。ローリング自身が言うように、彼女にあったのは「お金をかけずに使える才能」、つまり言葉と物語でした。習い事も知育玩具も買えなくても、言葉と物語だけは、親から子へいつでも渡すことができます。
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想像力は現実逃避ではない。ローリングがハーバードで語ったこと
2008年、ローリングはハーバード大学の卒業式でスピーチを行ないました。テーマは「失敗の効用と、想像力の重要性」。魔法の世界を生み出した作家が語った「想像力」の定義は、多くの人が思い浮かべるものとは少し違います。
彼女は、想像力とは「存在しないものを思い描く力」であると同時に、自分が経験したことのない境遇にいる人の気持ちに寄り添う力だと述べました。空想する力ではなく、共感する力。そこに想像力の最も大きな価値があるというのです。
さらに、彼女はこうも語っています。世界を変えるのに魔法はいらない。私たちはすでに、「もっとよい未来を想像する力」を自分のなかに持っている。
苦しかった日々を振り返りながら、「どん底は、人生を立て直すための固い土台になった」と言い切るローリングにとって、想像力とは「この状況をどう乗り越えられるか」を思い描くための、きわめて現実的な道具でした。
この考え方は、子どもの発達研究とも重なります。4〜6歳の子どもを対象にした調査では、絵本に多くふれている子どもほど、他者の気持ちや考えを推測する力(心の理論)が高い傾向が報告されています。年齢や語彙力、家庭の収入を統計的に考慮しても、この関連は残りました。(ヨーク大学、心理学者レイモンド・マー氏ら)*1
物語のなかで、登場人物の「本当はこう思っている」「勘違いしている」に触れることが、他者の心を想像する練習になっているのかもしれません。

物語を通して「折れない心」が育つ理由
『ハリー・ポッター』の主人公たちは、みな何かを抱えています。両親を亡くし、階段下の物置で育ったハリー。裕福ではない大家族の末っ子として、いつも兄たちと比べられるロン。出自を理由に見下されるハーマイオニー。誰も「恵まれた子」ではなく、理不尽な環境のなかでもがき、立ち上がります。
子どもは物語を読んでもらうことで、困難に出会った人が、悩み、助けを借り、乗り越えていく過程を疑似体験します。この体験の積み重ねが、「困ったことは起きる。でも、なんとかなる」という心の型をつくっていきます。
レジリエンス研究の第一人者は、レジリエンスとは特別な子どもだけがもつ才能ではなく、「ありふれた魔法(Ordinary Magic)」だと表現しました。つまり、安心できる大人との関係や、ものごとを考える力といった、どの子にも備わっている当たり前の仕組みから生まれるものだということです。(ミネソタ大学、発達心理学者アン・マステン教授)*2
そして、この「当たり前の仕組み」の中心にいるのが、親です。
ローリングは、先の見えない状況のなかでも書くことをやめませんでした。娘のジェシカが6歳になると、自分が書いた物語を彼女に読み聞かせるようになったと語っています。親が下を向かずに生きようとしている姿は、子どもにとって、どんな言葉より雄弁な「乗り越え方の見本」になります。
親子の絵本の読み聞かせに関する複数の研究を統合したメタ分析では、就学前の読み聞かせの頻度が、その後の語彙や読み書きの力と関連していることが示されました。注目すべきは、この関連が家庭の社会経済的地位によって変わらなかった点です。読み聞かせは、お金の有無にかかわらず、どの家庭でも同じように働く可能性があります。(ライデン大学、発達心理学者アドリアナ・ブス氏ら)*3
今日からできる、お金のかからない「想像力」の育て方
ローリングの話から取り出せる実践は、じつはとてもシンプルです。すでにやっていることに、ほんの少し足すだけで十分です。
いつもの読み聞かせに、ひとつ質問を足す。 「この子、いまどんな気持ちだと思う?」「あなたならどうする?」。物語を止めて考える時間が、他者の気持ちを想像する練習になります。答えが出なくても構いません。問いかけそのものが、想像のスイッチになります。
「うまくいかない場面」を飛ばさない。 主人公が失敗する場面、泣く場面、仲間とけんかする場面。読みながらつらくなる部分こそ、「困難は乗り越えられる」という心の型を育てるところです。ハッピーエンドだけでなく、そこにたどり着くまでの回り道も一緒に味わってみてください。
「もし〜だったら」を日常の会話に混ぜる。 「もし雨が降らなかったら、この町はどうなるかな」「もしうちの猫がしゃべれたら、なんて言うかな」。図書館の絵本と、夕食のときの5分。それだけで、想像力を鍛える環境はそろいます。
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親が子どもに読んで聞かせる本は、いつか子どもが自分の人生でつまずいたとき、身を守る盾になり、道を切り開く剣になります。ローリングが言ったように、世界を変えるのに魔法はいりません。「もっとよい明日を想像する力」は、今夜の1冊のなかにあります。ベビーカーを揺らしながら書かれた物語が世界を変えたなら、あなたが今夜読む1冊が、ひとりの子どもの心を強くしないはずがありません。
FAQ(よくある質問)
Q. 読み聞かせは何歳まで続ければいいですか?
A. 自分で読めるようになってからも、読み聞かせを続けることに意味があります。文字を追う負担がない分、子どもは物語の内容や登場人物の気持ちに集中でき、少し難しい本にも触れられます。子どもが「もういい」と言うまで、無理のない範囲で続けてみてください。
Q. 同じ本ばかり読みたがります。新しい本に変えたほうがいいですか?
A. 繰り返し読むこと自体が、子どもにとっては大切な体験です。展開を知っているからこそ、登場人物の気持ちや細かい絵に注意が向きます。同じ本を読みながら、「今日はこの子の気持ち、どう思う?」と質問を変えてみると、1冊から引き出せるものが広がります。
Q. 子どもが読み聞かせに集中してくれません。
A. 最後まで聞くことが目的ではありません。途中で脱線しても、途中でやめても、親の声で物語にふれた時間は残ります。短い絵本を1冊、寝る前の決まった時間に。それが習慣になれば、集中はあとからついてきます。
(参考)
*1 Mar, R. A., Tackett, J. L., & Moore, C. (2010)|Exposure to media and theory-of-mind development in preschoolers. Cognitive Development, 25(1), 69-78.
*2 Masten, A. S. (2001)|Ordinary magic: Resilience processes in development. American Psychologist, 56(3), 227-238.
*3 Bus, A. G., van IJzendoorn, M. H., & Pellegrini, A. D. (1995)|Joint book reading makes for success in learning to read: A meta-analysis on intergenerational transmission of literacy. Review of Educational Research, 65(1), 1-21.
*4 J.K. Rowling (2002)|A Kind of Magic. The Daily Telegraph, June 9, 2002.
*5 Harvard Gazette (2008)|Text of J.K. Rowling’s speech. Harvard University, June 5, 2008.









