スウェーデン南部の小さな町で育ち、16歳でホームステイ、19歳で単身日本へ移住した村雨辰剛さん。いまや日本の伝統文化を受け継ぐ庭師であり、俳優としても活躍しています。
前編では、こどもの「好き」を否定せず応援する親の姿を紹介しました。後編となる本稿では、もう一歩踏み込んで、こどもの「挑戦」を支える親の関わり方に焦点を当てます。鍵になるのは、先回りしすぎない “距離感” 。
KCJ GROUP副社長・宮本美佐さんが村雨さんに伺いました。
※本稿は、KCJ GROUPで行われた特別対談「村雨辰剛×宮本美佐」を一部抜粋・編集したものです。全文は「キッザニア白書2025」でお楽しみいただけます。
目次
行動し続けた10代——「今できる方法」を探して道を開いた
村雨:もともと日本の文化に強く惹かれていて、「いつか日本で暮らしたい」という思いが10代の頃からずっとありました。でも、どうすれば行けるのかは何も分からなかった。だからこそ、自分で動くしかなかったんです。
日本へ渡ると決めたときも、受け入れてくれる学校を自分で片っ端から電話して探しました。時差の関係で、日本が昼間のときはスウェーデンは夜中なので、深夜に一校ずつ「すみません、留学させてもらえませんか?」と電話してまわったんです。
もちろん正式な留学はお金が足りず、団体を通したホームステイも難しい。「どうすれば日本に行けるのか」をずっと模索していたんです。半分あきらめかけた頃、日本人の方とチャットでつながり、観光ビザで3か月だけ滞在できる道が開けました。
来日後も、どうしても学校に入りたくて高校を探したり、アメフトをやっていたのでたまたま見つけたアメフト部の掲示板に書き込んで…とか(笑)。とにかく “今の自分にできる方法” を自分で考え続けていました。
宮本:ご自身で動き続けたからこそ、道が見えてきたんですね。
村雨:はい。考えて、考えて、それでも動き続ける。そういう経験が「まずやってみよう」と思えるようになった原点だと思います。

自分で考え、選んだ経験が自信に
宮本: 実際に16歳でホームステイを経験され、19歳で単身日本へ移住されました。異文化の地で暮らし、働いていく中で、ご苦労も多かったのではないかと思います。
村雨: 振り返ると、僕は非常に環境に恵まれていたので、何が大変だったのか正直思い出せないんです(笑)。さまざまな出来事があったはずですが、夢中になっていると、困難なことも楽しくなってしまうんです。
自分でお金を貯めて留学したこともその一つですね。その時も「自分で何ができるか」を考えなければなりませんでしたし、自分ですべて留学の準備をした経験が、ものすごく自分を成長させてくれたと思います。
宮本: 確かに、自分で考えたことを実現する経験は大切です。自己効力感も高まりますし、成長を実感できる瞬間ですね。
村雨: はい。そして、本当に日本が好きで、日本で暮らしたい、日本でいろいろやりたいという想いが原動力となり、困難なことも “大変”と思わずにやり遂げることができたのです。
「好き」が枝分かれして広がった挑戦の道
宮本さん(以下 宮本):10代のころから「自分で考えて動く」という姿勢を貫いてこられた村雨さんですが、その後のキャリアでは、庭師という道に進まれ、さらに俳優としても活躍されていますよね。こうした挑戦は、どのように広がっていったのでしょうか。
村雨さん(以下 村雨): 自分でも「何なんだろう?」と思うくらい、常に「好きを見つけて広げる」生き方をしているんです。5年前、10年前と比べても、いつも変化し続けていると思います。でも「年齢や状況に関係なく、自分の“好き”を見つけて、打ち込むことが」という姿勢だけは変わりません。
宮本:その “好き” が、新しい挑戦の芽になっているわけですね。
村雨:そうですね。僕は “軸” を大事にしています。庭師、造園業に入るとき、弟子入りから始め、その徒弟制度の中で修行して一人前になった。庭に対する強い想い、それがまず自分の根っこになる軸です。
さらにその修行の中で、日本庭園がどんどん減っている現状を強く感じました。外から来た人間として、「日本庭園の良さをもっと伝えたい」と思うようになった。これも自分にとって大きな軸になっています。
その想いから活動が広がり、メディアにも出させていただくようになりました。そこで、まさか自分がこんなにも好きになれるもの──お芝居のような “新しい好き” に出会えるとは思っていませんでした。ひとつの “好き” から、また別の “好き” が枝分かれして広がっていった感覚ですね。

大人になっても “ワクワク” を捨てない——挑戦を続けるために
宮本:ここまで “好き” を原動力に、挑戦を続けてこられた村雨さんですが、これからやってみたいことはありますか?
村雨:具体的に申し上げるのは難しいのですが、こどもの頃から持っていた「ワクワク」や「挑戦したい」という気持ちに、これからも素直でありたいと思います。
「大人だから…」とか「費用の問題が…」といった理由であきらめるのではなく、置かれた状況でいかに実現させるか。この「ワクワク」という気持ちこそが、物事を形にするための最大の力になると思うからです。
宮本:これを伺い、「もう一度がんばろう」という前向きな気持ちになりました。私自身、「迷ったら、よりおもしろい方へ行こう」というのが行動の軸になっているので。
村雨:年齢や状況に関係なく、自分にとっての新しいチャレンジを続けていく姿勢が大切ですよね。
宮本: そういう意味で、キッザニアはこどものチャレンジの受け皿になりたいと強く願っています。施設内では、初めて出会ったこども同士が一緒にアクティビティをすることもあります。 “親の目が届かない場所” だからこそ生まれる挑戦があります。初めて会ったこども同士が協力し合ったり、失敗しても気にせずやり直したり——そうした姿を見るたびに、こども達の可能性を感じます。
村雨:本当にそうですね。日本はどうしても “大人が先回りして道を整えがち” ですが、キッザニアでは、まずこども自身がやってみる。自由に選んで、自由に失敗して、自由に楽しめる場所だと感じます。その中で「好き」が自然と育っていくんですよね。
挑戦できる環境があるだけで、こどもの伸び方は大きく変わると思います。
「自分でなんとかする」状況が、こどもの生き抜く力を育む
村雨: その点で大人は、どの程度の見守りや手助けをするかという「距離感」が大事だと思います。先回りして成功を体験させるだけではなく、失敗も体験させないと、こどもはチャレンジすることができなくなってしまいますから。
宮本: 大人はつい先回りしがちですよね、おっしゃる通りだと思います。
村雨: 国や個人によって考え方は違いますが、こどものチャレンジを支える距離感を意識することが大切だと感じています。
宮本: こういう時代だからこそ、こども達を見守り、何かあっても受け止めること。それが大人の重要な役割なのかもしれませんね。「自分でなんとかしなきゃいけない」という状況こそが、こどものキャパシティを広げ、次の時代を生きぬく力を育むのだと思います。挑戦をサポートし、失敗を受け止める役割を担うことの重要性を強く感じました。
本日は、ご自身の経験に裏打ちされた力強いお話をありがとうございました。

【気になる!】
村雨さんが着ている印半纏
印半纏(しるしばんてん)は、
「襟(えり)、背、腰まわりなどに、屋号、家紋、姓名などのしるしを染めぬいた半纏。おもに職人が用い、また、雇主が、盆、暮れに使用人や出入りの者に支給して着用させるもの。法被(はっぴ)。出典(精選版 日本国語大辞典 小学館)」のこと。
村雨:僕は日本庭園と和風を大切にしたかったので、あえて昔ながらの印半纏を着ています。これを着ることで、「自分は庭師である」と示すことができるので、大切にしています。特にこの日本の印半纏は、家紋や屋号を背負って仕事をするというプライドが込められていると感じています。
宮本:キッザニアでもユニフォームを非常に大切にしており、体験する職
業それぞれにパートナー企業・団体の想いがこもったユニフォームを用意しています。こども達は、そのユニフォームを着た瞬間にスイッチが入って、やる気やプライドが見られるんです。
■ 庭師・俳優 村雨辰剛さんx KCJ GROUP副社長 宮本美佐さん対談一覧
前編:こどもの「好き」をただ見守った親——大きな夢を叶えた原点|庭師・俳優 村雨辰剛 × キッザニア副社長対談
後編:先回りしない親の距離感が、こどもの挑戦する力を後押しする|庭師・俳優 村雨辰剛 × キッザニア副社長対談
【プロフィール】
村雨 辰剛(むらさめ たつまさ)|庭師・俳優
北欧スウェーデン・エンゲルホルム生まれ。幼少期から異文化に強い興味を持ち、16歳で神奈川にホームステイ。日本語を習得後、名古屋で語学教師や通訳などを経て見習い造園業に転身し、帰化後、村雨辰剛と改名。現在は庭師として日本庭園と伝統文化の魅力を発信しながら、俳優・タレントとしても活躍。
【プロフィール】
宮本 美佐(みやもと みさ)|KCJ GROUP 株式会社 代表取締役副社長
1990年、国際電信電話株式会社(現 KDDI株式会社)に入社。2020年より現職。広報・マーケティング全般のほか、キッザニア施設以外での学びの場づくりや教育的価値の発信を担う。
© KCJ GROUP「キッザニア白書2025」













