2018.5.17

【夢のつかみ方】映画監督・白石和彌さん(前編)~「やってやる!」という気概〜

【夢のつかみ方】映画監督・白石和彌さん(前編)~「やってやる!」という気概〜

社会派サスペンス・エンターテインメント『凶悪』(2013年)で数々の映画賞を受賞し、一気に知名度を上げた映画監督・白石和彌さん。2018年5月12日には、注目の最新監督作『孤狼の血』が公開されました。誰にも真似できない鮮烈なバイオレンス描写はどのような人生で培われたものなのでしょうか。まずは、映画業界で働くことを目指したきっかけや、波瀾万丈の助監督時代を振り返ってもらいました。

構成/岩川悟 取材・文/清家茂樹(ESS) 写真/玉井美世子

母親の後押しで上京し映画の世界へ

僕が映画業界で働くことを志したのは高校生のころ。きっかけとなった作品は……実は、日活ロマンポルノなんです。若かったから興味本位で見たわけですが、ただ単に官能的というものじゃなかった(笑)。たとえば、『桃尻娘』(1978年/監督:小原宏裕)がそう。娘というだけあって若い女の子が出てくるんですが、中身はすごく切ない青春映画。「あれ!?」っていう感覚があって、一気に映画に対する興味が強まったわけです。でも、映画監督になろうというような自信はなくて、とにかく映画製作に関わるスタッフになりたいと思ったんです。それが、映画の世界を目指したきっかけですね。

僕の出身は北海道の旭川。高校を卒業して、新聞奨学生として札幌にあった映像技術系の専門学校に進学しました。うちは母子家庭だったので、すぐに働いて家にお金を入れたくて道内でカメラマンなどの職を探した。でも、専門学校で身に付けた技術を生かせる就職先は見つからない。本当にありがたいことに、僕の母はチャレンジさせてくれるタイプでした。「映画の仕事をやりたいんだったら、東京に行かなきゃいけないことはわたしでもわかる。一度の人生。わたしのことはいいから東京に行ってみたら?」と背中を押してくれたんです。

そういう経緯があって上京し、中村幻児監督(ピンク映画を代表する巨匠のひとり)主宰の『映像塾』に参加した。土日だけ開かれる幻児監督の私塾のようなもので、月謝は3万円くらいだったかな。それだったらバイトしながらでも通えますからね。そこで脚本の書き方を教えてもらったり自主映画を撮ったり、そんなことを学びました。そんな経験を積んで、若松孝二監督(ピンク映画から一般映画に進出しプロデューサーとしても活躍し、2012年逝去)のプロダクションに入り助監督になりました。僕のなかでは、『とにかくまず現場に出たい』という気持ちが強かったんですよね。

撮影現場はやっぱり超楽しかった。最初は怒られてばかりでしたけど……2年くらい経つと現場のいろんなことがわかってくるし、責任ある仕事も任されるようになる。自分の経験値がどんどん上がって、やれることが増えていく実感がありました。そのころ、ある監督が幹線道路を車の隊列でふさいで敵対する人間を襲撃しに行くようなシーンを撮りたいと言ってきた。本来取るべき道路使用許可はなかなか下りそうにない。だから強引にやる。そんなふうにして撮れた映像に監督が満足してくれたらうれしかったし、そういう経験を武勇伝のように夜な夜な居酒屋で仲間と語り合うのも楽しかった。いま振り返れば、完全にアウトですが(苦笑)、いろんな制約があるなかでも「やってやろうじゃねえか!」というふうな気概はどんなときも持っていましたね

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助監督の仕事に魅せられながらも積み重ねた小さな挫折

そのうち、サード助監督からセカンド助監督になって、現場を仕切ったり、使われるだけの立場から下の助監督を使う側になったりとステップアップしていきました。それでも僕は映画監督になれるとは思ってなかったんです。それには、やっぱり若松プロに入った影響が大きかった。若松さんって、感覚が普通じゃないんですよ。あるとき、僕の先輩助監督が部屋を借りていたアパートの空き室を撮影に使ったんです。先輩は物を片付けられないタイプで部屋は散らかり放題。スタッフのみんなが先輩の部屋をのぞいては「うわーッ」って騒いでいる。それを聞きつけた若松さんは、自分の弟子の部屋をまじまじと見て「こんなきたねえ部屋だったら家賃払う必要ねえだろ」と(笑)。汚してるのは先輩ですから大家さんの責任じゃない。そんなことを真面目に言うような変な人こそ、映画史に残るような人なんだと思いましたね。

映画監督・白石和彌さんの夢のつかみ方前編2

行定勲監督(『GO』『世界の中心で、愛をさけぶ』など多数の代表作を誇る現代のヒットメーカー)もそうだった。僕が助監督をやっていたころは行定さんも30歳半ばで体力があり、とにかく隅々にまでこだわって遅くまで撮影することが多かった。夜中の2時くらいに撮影を終えて翌朝7時には集合して現場に出発するみたいな毎日。それこそ、睡眠時間は2時間くらいでみんなヘロヘロですよ。そんな状態が2週間くらい続いたころの朝、行定さんが言うんです。「昨日、帰ってからDVD借りて映画を見たんだけど、今日やるシーンをあんな感じにしたいんだよね」って。あれから映画を見たのかと驚きをとおり超えて、そのすごさに呆れるしかなかった。

僕はもともと映画監督を志していたわけではないので、本来の意味での挫折ではないかもしれませんが、若松さんや行定さんに衝撃を受けたことも挫折といえば挫折かもしれませんよね。挫折といえば、こんな話もあります。若松プロで助監督をしていたころ、大阪芸大から卒業制作だというビデオテープが送られてきた。収録されていた映像を見ても、僕にはピンとこなかった。でも、若松さんはすごく褒めたんです。「まだまだ駄目だけど、やりたいことをやっていて勢いもあるし、なかなかいい」って。で、その送り主が熊切和嘉監督(大阪芸大卒業制作『鬼畜大宴会』が第20回ぴあフィルムフェスティバル準グランプリを受賞)でした。以降、熊切さんはスター監督になっていくわけです。

熊切さんの『青春☆金属バット』(2006年)には、僕の師匠でもある若松さんがキャスティングされて、「現場に一緒に来い」と言われてマネージャーみたいについて行きました。熊切さんは僕と同い年だから、どこか複雑な心境でしたよね。ひとつの大きな挫折ではなく、そういう小さな挫折を積み重ねていた感じだったのかな。ただその後、別のある監督のおかげで僕の人生は一変したんですけどね(笑)。

※後編に続く→

■ 映画監督・白石和彌さん インタビュー一覧
第1回:【夢のつかみ方】(前編)~「やってやる!」という気概〜
第2回:【夢のつかみ方】(後編)~人生を変えた「反骨心」〜
第3回:【ものを「創る」ということ】〜失敗を見守ることができる親でありたい〜
第4回:【子どもに見てほしい映画】〜映画は大人への扉を開いていくメディア〜

【プロフィール】
白石和彌(しらいし・かずや)
1974年12月17日生まれ、北海道出身。1995年、中村幻児監督主宰の『映像塾」に参加。以後、若松孝二監督に師事し、助監督としてさまざまな映画作品で腕を磨き、2010年、『ロストパラダイス・イン・トーキョー』で長編監督デビュー。2013年、社会派サスペンス・エンターテインメント映画『凶悪』で新藤兼人賞金賞など、数多くの映画賞に輝く。最新監督作『孤狼の血』が2018年5月12日に公開された。
●『孤狼の血』公式サイト http://www.korou.jp/

【ライタープロフィール】
清家茂樹(せいけ・しげき)
1975年生まれ、愛媛県出身。出版社勤務を経て2012年に独立し、編集プロダクション・株式会社ESSを設立。ジャンルを問わずさまざまな雑誌・書籍の編集に携わる。野球好きが高じてニコニコ生放送『愛甲猛の激ヤバトーク 野良犬の穴』にも出演中。