あたまを使う 2026.9.4

『注意の奪い合いの時代』にこそ考えたい。一緒に食べるときに、私たちが手渡せること。

『注意の奪い合いの時代』にこそ考えたい。一緒に食べるときに、私たちが手渡せること。

献立を考えて、栄養を調べて、食べてくれないと落ち込む。食事づくりは、考えることばかりが増えていきます。そのあいだにも、テレビやスマホが、食卓の注意をさらっていく。

がんばりが足りないのではなく、時代のほうが、味わうことを難しくしているのかもしれません。

食育は食べ物を楽しめるようになるためにある。前編でそう話してくれた、ベビーフードブランド「the kindest」を手がける株式会社MiLの杉岡侑也さん。では、そのために日々の食卓で親にできることは何なのか。返ってきたのは、拍子抜けするほど少ない答えでした。

【プロフィール】
杉岡侑也(すぎおか・ゆうや)
株式会社MiL代表取締役。大阪府出身。高校時代に不登校を経験し、23歳までフリーターとして過ごしたのち上京。20代半ばで新卒採用支援のBeyond Cafeを創業。続いて非大卒者向けのキャリア支援を手がけるZERO TALENTを設立し、2社を経営する。その後、両社の取締役を退任し、28歳で妻とシェフの3人で株式会社MiLを創業。国産素材にこだわったベビーフードのD2Cブランド「the kindest」を立ち上げ、離乳食から幼児食まで展開している。3児の父。

「これは嫌いなのかも」と決める前に

子どもは食べるという行為のなかで、視覚、嗅覚、味覚を総動員して刺激を受け取ります。初めて出会う匂い、初めて見る色、初めての舌ざわり。そこには当然、驚きも戸惑いもあります。

そしてこれを続けていくと、慣れていくというプロセスがあります。慣れた先で、その子の感性が少しずつ広がっていく。ここまでは、ある程度エビデンスのある話です。

ところが実際には、そこで止まってしまうことが少なくありません。赤ちゃんが一度吐き出したのを見て、「この味は苦手なのかもしれない」と親が決めてしまう。悪気なんてまったくなくて、むしろよく見ているからこそ起きることなのですが、結果として酸味や苦味をほとんど経験しないまま育つ子どもが増えています。

一度で判断せず、何度か出会わせてあげると、意外と慣れていくものなんです。慣れるかどうかより、出会う機会があったかどうかのほうが大きい。

一度吐き出しても苦手と決めつけず何度か出会わせることの大切さを表す食卓のイメージ

奪われる注意を、食卓に戻す

もうひとつは、注意をどこに向けるか、という話です。

いま私たちは、アテンションエコノミーと呼ばれるような、注意の奪い合いの社会に生きています。子どもが食事をしているあいだも、テレビがついている、動画が流れている。よく見かける光景だと思います。

そのうえで私たちは、奪われていく注意を、できる限り食べることのほうに向けてあげてほしいと言っています。刺激があるだけでは足りなくて、そこに注意を向ける環境があってはじめて、その子なりの感性がつくられていくと考えているからです。

注意が向いていれば、「このテクスチャーってどういう感じなんだろう」が、日常の三食のなかで育っていきます。

昔はテレビをつけたまま食べるなと、よく怒られましたよね。今は手のひらの上にテレビがある時代ですから、条件はむしろ厳しくなっています。それでも、できる範囲で刺激をオフにした環境であってしかるべきだと思っています。

私たちがどれだけ注意を奪われやすい社会に生きているのか。まずはそこを自覚するところからだと思います。

この感覚のまま子どもを社会に放り込めば、子どもたちもおそらく同じように、まだ軸も定まらないうちから、より強い刺激を求めて情報の海を泳ぐことになります。

だからまずは、自分の心で刺激を一旦遮断して、目の前のことに集中してみる。そういうトレーニングが第一なんじゃないでしょうか。

これは大人でも同じです。自分で料理をしてみると、何が入っているかは当然わかる。ただ、レシピにくるみを入れろと書いてあっても、できあがったドレッシングにくるみの姿かたちはもう残っていません。そこからくるみを感じ取ろうとすると、「くるみの香りって何なんだろう」と一生懸命に探すことになる。見た目では判断できないからです。

そういう繰り返しのなかに、目の前のものへ注意を向けるという行為は、日常でも十分にあるはずなんです。

こうした積み重ねの先で、子どもは食を面白がれる子になっていきます。そして注意を向けることが家族のなかで大事にされるようになると、親のほうも、世の中が注意を妨げるものであふれていることに気づいていく。

結果として子どもは、自分なりの興味や関心にぐっとのめり込むような子になっていく。瞬間的な快楽ではなく、振り返ったときに「良かったね」と思えるようなやりがいに出会っていくんじゃないか。そんなふうに考えています。

テレビやスマホの刺激をオフにして食事に注意を向ける親子の食卓のイメージ

一緒に食べる。違っていていい

食育って、いろんな流派がある感じがしますよね。親御さんがよく目にする「これはやったほうがいいよね」という話も、結構ありますよね。

では、最低限これだけ押さえておけばいい、というものがあるとしたら何か。少し食からずれるかもしれませんが、私は親と子が一緒に、というのがとても大事だと思っています。

教育はどんどん外部化していて、教室に放り込めば算数を学んで帰ってくる、という感覚も強い気がします。でも少なくとも食は日常であり、本当に生活に直結するものです。外に出しきることができない。

父親も、と言うと語弊があるかもしれませんが、少なくとも一緒に食事をして過ごすこと。親と子は違っていていいけれど、それも含めて一緒に経験しながら、「あなたはそうなのね」とやっていくのがいいんじゃないかと思っています。

キノコが嫌いな子も当然いますし、苦味の感じ方は結構、遺伝なんです。遺伝的に食べられない、すごく嫌に感じるというのも、その子の個性です。そこを型にはめず、「そうなんだね、どう感じてるんだろうね」と親も一緒に会話をする。

会話も自由でいいんです。交換することで磨かれていくものでもあるので、食卓の会話はとても素敵だなと。

何を食べさせるか、どう食べさせるかということよりも、一緒に食卓を囲むこと。そこがいちばん大事なんじゃないでしょうか。

目的を決めずに、ゆらゆらする時間を

最後に、少し食から離れた話をさせてください。

うちの株主に為末大さんというアスリートがいるのですが、彼は名著『ホモ・ルーデンス』に書かれた遊びの捉え方を大事にしていました。遊びとは、目的や意味から離れて、ただ「楽しいからする」行為である。目の前で起きていることに向き合い、感じながら、これって何だろう、このまま追いかけてみると何が起こるんだろうと、「今、今、今」を繰り返していく世界だ、と。

目線を先に置くのではなく、あえてずらして「今」に置く。そうすることで物事の新しい意味が見つかったり、自分の想像の壁を越えたりするきっかけになる。そう考えると、思った以上に子どもって、大人になるまで遊んでいなかったんじゃないか。そういう話をしていました。

東京にいると、小学校受験という言葉も当然聞こえてきます。それが悪いわけではまったくないのですが、どこか目的を設定されて、そこに向かって何かをする。そういうものにさらされすぎている気もするんです。

もしかしたら20年後、高校はなくなっているかもしれない。偏差値なんて言葉も、「そんなのあったね」と言われているかもしれない。

他人が、しかも非常に刹那的な時間のなかで良いとしている定義に、自分を合わせに行く。そこに慣れすぎていることから一度離れて、ゆらゆらする時間を、時期も決めずに持ってみる。

そのなかで何かが出てくるまで、じわっと待つ。そういうことをしてみてもいいんじゃないでしょうか。

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一度で決めない。テレビを消す。一緒に座る。杉岡さんが挙げた実践は、拍子抜けするほど少なく、そのどれもが技術というより姿勢の話でした。

食べ物を楽しめるようになるために。前編で語られていたことは、日々の食卓ではこういう形をしていました。

前編 しいたけをエリンギと呼んだ日。食育は、食べ物を楽しめるようになるためにある

親と子が一緒に食卓を囲む時間の大切さを表す家族の食事のイメージ