あたまを使う 2026.9.3

食育のほんとうの価値は、「栄養と成長」ではないかもしれない。ベビーフードブランド代表がたいせつにする、子どもと「食」のはなし

食育のほんとうの価値は、「栄養と成長」ではないかもしれない。ベビーフードブランド代表がたいせつにする、子どもと「食」のはなし

子どもが何かを口に入れて、もぐもぐと動かして、「おいしい」と言う。ただそれだけの場面なのに、なぜかこちらまで嬉しくなる。

ところが「食育」という言葉が出てきたとたん、話の色合いが変わります。好き嫌いが減るらしい、集中力に関係するらしい、脳にいいらしい。そうやって何が育つのかを探しはじめると、さっきの「おいしい」がどこかへ行ってしまう。よかれと思って調べるほど、食卓が少しずつ課題の場所になっていきます。

では、毎日の食事は子どもの何を育てているのか。ベビーフードブランド「the kindest」を手がける株式会社MiLの杉岡侑也さんに伺いました。食育を掲げる会社の代表ですから、栄養の設計や、これはやったほうがいいという話が返ってくるものと思っていたのですが、出てきたのはまるで違う種類の話でした。

【プロフィール】
杉岡侑也(すぎおか・ゆうや)
株式会社MiL代表取締役。大阪府出身。高校時代に不登校を経験し、23歳までフリーターとして過ごしたのち上京。20代半ばで新卒採用支援のBeyond Cafeを創業。続いて非大卒者向けのキャリア支援を手がけるZERO TALENTを設立し、2社を経営する。その後、両社の取締役を退任し、28歳で妻とシェフの3人で株式会社MiLを創業。国産素材にこだわったベビーフードのD2Cブランド「the kindest」を立ち上げ、離乳食から幼児食まで展開している。3児の父。

しいたけをエリンギと呼んだ日

うちの息子が、しいたけを「エリンギ」と呼んだことがあるんです。ただの言い間違い、覚え違いです。誰かに話すような出来事でもありません。でも、そのときの食卓のことはよく覚えています。

他の人たちからしたら、本当にどうでもいい話だと思います。言い間違えて、みんなで笑った。ただそれだけです。

だけど我が家にとっては、とんでもなく愛おしい思い出なわけです。ああいう時間にもう少し浸れたら、世界って平和にならないかな、と本気で思うんです。

私たちの会社のミッションにも書いたのですが、どうやら幸せというのは、どこか遠くの強い目標を達成したときに得られるものというより、もっと日常の、どうでもいいような一瞬にあるのではないか。それが私の価値観です。

食育は、食べ物を楽しめるようになるためにある

私たちは社内で、食の体験を整理したひとつのカリキュラムを持っています。子どもは食べるという行為のなかで、視覚、嗅覚、味覚を総動員して刺激を受け取る。それを繰り返すうちに慣れていって、慣れた先でその子の感性が少しずつ広がっていく。そういう順番で考えています。

では、そうやって育った感性は、好奇心や非認知能力と呼ばれるような力にもつながっていくのか。意外に思われるかもしれませんが、世の中の研究では基本的にそこは切り離して考えられていて、食のなかで獲得したものはあくまで食の周辺で発揮されるもので、汎用的なものだとは今のところ言われていません。

食べる力が育ったからほかのこともうまくいく、という言い方を、私はしないようにしています。まだそこまでは、わかっていないからです。

栄養をきちんと摂ることも、食べられるものが増えていくことも、それ自体はまぎれもなく大事なことです。そこを軽んじるつもりは、まったくありません。

そのうえで、食育は何のためにあるのかと聞かれたら、私はこう答えます。食べ物を楽しめるようになるためにある。ほかのことには役に立たないかもしれないけれど、食べ物を楽しめたら、それで人生は豊かじゃないですか。

ご飯を食べて「おいしい」と思える。食べることにやたら詳しい。それだけで、その人の毎日はずいぶん豊かであるはずです。

機能的な価値がないものにも、価値はある

楽しめるだけでいいのか、と思われるかもしれません。でも、そういうものは世の中にいくらでもあります。

京都に旅行に行きましょう、に機能的な価値はありません。きれいな絵をみることも、好きな歌を聴くことも、直接的に「何かの役に立つ」という意味での機能的な価値はありません。「すごいな」「きれいだな」「すきだな」で終わる話です。それでも私たちはそこに価値を感じて、お金も時間も使っている。発育に直接結びつかないから価値がない、ということにはならないはずなんです。

最近、シビックプライドという言葉にすごくはまっています。その街が持っているブランドや、そこに暮らす人たちが抱いている誇りのことです。

スペインに生まれたらサッカーが好きなほうが楽しくないですか、とか。鎌倉に生まれたらサーフィンをするんですか、とか。誰かが体系立てて教えたわけではないのに、教養も含めて、なんとなくその街が子どもにやってしまっている教育がある。そこからボトムアップでサーファーが生まれたり、サッカー選手が生まれたりする。

これも、何かの役に立てようとして始まったものではないはずです。でも、それが結局その人の居心地をつくっている。それ自体を楽しめること自体が、日本に生まれたからこそ獲得できる豊かさのひとつなんじゃないか。食に対する感性も、まったく同じ性質のものだと私は捉えています。

ほぼ、私たちの思いでしかありません

私たちが五島列島の魚を選んだり、トマトを一つひとつ湯むきしたりしていることも、正直、子どもの発育に「直接的な意味」はないと思っています。ただのこだわりなのかもしれません。

私たち日本人にはプライドがあります。南北に伸びるこの日本の土壌で、それぞれ違う環境のなかで育まれてきた手仕事と、セットでできあがった文化がある。それを紡いできた作り手が仕事を続けられなくなって、20年後にあの漁港が消えていたら、私は息子たちに「長崎に行ってきなよ、長崎めっちゃ面白いよ」と言えるでしょうか。

この瞬間の営業利益だけを見れば、別の判断のほうが合理的です。それでも、その土地の人たちが誇りを持ってそこに居続けられる、そういう地域の生き残り方を応援した未来でありたい。私たちはそれを「意義ある小さな循環」と呼んでいます。

カツオを獲っている人がいて、ブリを獲っている人がいる。その魚を家族で囲んで、おいしいねと言っている。子どもの発育に効くかと言われたら、そうではないかもしれない。でも、そういうものが実は豊かさなんじゃないかと思うんです。

意味づけるのは、本来自由なはず

親御さんと接していて感じるのは、「こうあるべき」という話の圧力の強さです。わかりやすいぶん、はまったほうが楽なんでしょうね。でも、はまろうと思っても物理的に時間が足りない、金銭的な余裕もない。いろんな側面で型にはまれなくて、そのギャップに精神的なストレスを感じている親御さんは、とても多い気がします。

うちの上の子は「あお」というのですが、この名前をつけた理由があります。私が小学生のころ読んでいた小説に「青い海」という一節があって、それを父親が後ろから覗き込んで、こう問いかけてきたんです。「お前にとってのこの青い海は、どういう青なのかな」と。

キラキラと光る青なのか、もっと紺碧の青なのか。小説の文脈上の正解は当然あるのでしょうけれど、君にとっての青い海は別になんだっていい。それが小説の面白いところであり、まさにそれこそが自由なんだと。父はそこをすごく大事にしていました。

いま思えばあれは、正しい読み方を教えようとしたのではなくて、息子のなかにある青がどんな青なのかを、父が知りたがってくれたということなんですよね。自分の子どもに名前をつけるとき、真っ先に思い出したのがその場面でした。

意味づけるのは本来自由なはずなのに、誰かが意味づけたものに迎合して、そうだと思い込まないといけない力が、いまはすごく強い気がします。それに、違和感を覚えているんです。適当でいいんじゃないかなって。

しいたけをエリンギと呼ぶことを正さなくちゃいけないなんて、どこにもないですから。

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食育は何のためにあるのか。食べ物を楽しめるようになるためにある。杉岡さんの答えは、拍子抜けするほどシンプルでした。

私たちはつい、何かのために、と考えます。これをやったら背が伸びる、頭が良くなる。でも、ご飯を食べて「おいしい」と思えることや、それを周りの人と共有できることは、それ自体がもう豊かさのはずです。

今日の食卓で誰かが笑ったのなら、それでもう、じゅうぶん足りているのかもしれません。

後編『注意の奪い合いの時代』にこそ考えたい。一緒に食べるときに、私たちが手渡せること。(近日公開)