からだを動かす/体操 2018.3.5

【夢のつかみ方】元体操日本代表選手・田中光さん(前編)~勉強熱心な母に感謝、運動能力の土台構築~

【夢のつかみ方】元体操日本代表選手・田中光さん(前編)~勉強熱心な母に感謝、運動能力の土台構築~

子どものころから活発で、体操が大好きな少年だった田中光さん。練習環境に恵まれなかったものの中学校では全国大会制覇を果たします。しかし、「さあ、これから本格的に体操をやるぞ!」と体操の名門高校に進学するも、父の突然の死や数々の故障にも悩まされ、体操選手としての挫折を経験しました。

そこから困難を克服し、1996年のアトランタオリンピック体操競技に出場。オリンピックの舞台で新技を成功させ、その技は自身の名前から『TANAKA』と認定されるなど活躍しました。

引退後は、創作ダンスやオペラ、舞台などにも挑戦。現在は、流通経済大学で幼少児教育・健康教育・介護予防などをテーマとした研究を行う他、体操教室にて子どもたちに体操指導を行っています。田中さんにこれまでの体操人生を振り返っていただき、挫折を克服した経験談を語ってもらいました。今回は前編をお届けします。

「人との出会いは偶然ではない」母の直感からはじめることになった体操競技

——田中さんが体操をはじめたきっかけを教えてください。

田中さん:
きっかけは、1964年東京オリンピックのときに体操競技で個人総合と平行棒で金メダルを獲った遠藤幸雄先生にわたしの母が偶然にも出会ったことからはじまります。

わたしは小さいころから凄く活発で、身体を動かすことが大好きな子どもでした。当時、テレビで放送されていた『仮面ライダー』に憧れていて、仮面ライダーの真似をするのが好きで側転をしてみたりする子どもだったのです。それを見ていて母が、「なにかスポーツをやらせたほうがいい」と思ったようです。そのときに、東京オリンピックの金メダリストである遠藤幸雄先生と偶然にも会場で出会って写真を撮ったことを思い出し、「人との出会いは偶然ではない」という信念から、「これは体操をやらせたらいいのではないか?」と直感で思ったそうなんですね。それで、3歳から体操教室に通うようになりました。

——地元の体操クラブに通っていたのでしょうか?

田中さん:
和歌山県の田辺市が出身なのですが、地元の体操クラブのベーシッククラスは3カ月1クールで、3カ月経つと最初の基本に戻ってまた同じプログラムをはじめるというクラスだったのです。それでは発展がないということで、本格的に教えてもらえる体操クラブを母が探してくれました。和歌山市内に本格的な体操教室を見つけたのですが、そこはクルマで片道2時間以上かかる場所……。それでもわたしのために母が送り迎えしてくれて、その体操クラブに通わせてくれたというわけです。ですが、やはり週に何日も通うのは負担が大きく、実際には週1回程度通うのが精一杯でした。

体操をやるための土台づくりとして、いろいろなスポーツを経験させてもらえた

――子どもの頃は体操以外にもなにかスポーツをしていましたか?

田中さん:
あくまでも体操は、親からやらされたというものではなく自分でやりたくてやっていたものです。最初は『仮面ライダー』に憧れていましたが、小学校低学年くらいからは「将来、アクションスターになりたい」と思うようになりました。当時は、ジャッキー・チェンなどアクションスターが輝いて見え、自分もアクションスターに憧れるようになったのです。そうしたこともあり、体操がやりたくて仕方がありませんでした。しかし、実際には十分な体操の練習ができない状況だったのです。

そんな状況を見ていた母は、「いまの練習でもおそらく小学校の中学年まではある程度は体操の技術も伸びるけれど、小学校高学年になってくると練習量が足りないから技術の習得が他の子どもよりも遅れてくることだろう」と考え、図書館でどうしたらよいかいろいろな本を読んで勉強したようです

――お母様も勉強熱心だったのですね。

田中さん:
はい、とても助かりました。母にスポーツ経験はありませんでしたが、あるとき運動学の本を読んで「人の運動能力の土台は10歳くらいまでに構築される」と知り、体操をやるための土台づくりということで、わたしが興味を持った水泳、サッカー、空手など、いろいろなスポーツを経験させてくれました

小学校6年生のときでしたが、1984年にロサンゼルスオリンピックが開催されました。体操種目では具志堅幸司さん(つり輪と個人総合:金メダル、跳馬:銀メダル、鉄棒と男子団体総合:銅メダル)と森末慎二さん(鉄棒:金メダル、跳馬:銀メダル、男子団体総合:銅メダル)がオリンピックで金メダリストとなりました。その姿をテレビで観て、「自分もまた思い切り体操がしたい!」と強く思うようになりました。

――オリンピックから影響を受けた。

田中さん:
そこで、私立清風中学校(大阪市天王寺区)に入学しました。これでやりたかった体操が思う存分できるようになったのです。体操はものごとを克服していくことを学ぶことができたり、辛ければ辛いほど、できたときのなんとも言えない達成感を味わうことができます。そんな体操が楽しく、どんどんのめり込んでいきました。

本来なら中学から本格的にはじめた体操でしたから、中学校3年生のときに全国大会で優勝することはあまりないことなのですが、全日本中学体操競技選手権大会で優勝することができました。おそらく、それまでにいろいろなスポーツを通じて基礎となる土台をつくってきたことと、体操の基礎練習をたくさん指導してもらったこともあって力が伸びたのでしょう

中編に続く→

写真◎榎本壯三

【プロフィール】
田中光(たなか・ひかる)
1972年7月19日、和歌山県に生まれる。大阪・清風中学校、清風高校卒業後、筑波大学を経て日本体育大学大学院修了。さらに、兵庫教育大学大学院にて博士(学校教育学)の学位取得。体操は3歳からはじめるも練習環境に恵まれず本格的に体操の練習をはじめたのは中学校から。大阪の体操の名門である清風高校に入学すると、1989年全国高校選抜体操競技大会:個人総合・鉄棒優勝。1991~1995年まで全日本選手権にて平行棒5連覇を果たす。1995年の世界体操選手権では、団体で銀、種目別平行棒で銅メダルを獲得。1996年にはアトランタオリンピック体操日本代表として出場。平行棒ではオリジナル技(懸垂前振りひねり前方かかえ込み2回宙返り腕支持)を成功させ、F難度の『TANAKA』として認定された。引退後はオペラや舞台界でも活躍。タレント活動の他、白百合女子大学では初等体育科指導法、器械運動を担当、流通経済大学教授として幼少児教育・健康教育・介護予防などをテーマとした研究、指導を行っている。また、自身がプロデュースする会員制のクラブ 田中光体操クラブ『TAISO LAND』でも子どもたちに体操を指導している。おもな著書に、『ヒカルくんのスポーツのコツ絵事典―体育が好きになる!』(PHP研究所)、『子どもの体育』(ふくろう出版)、『母と子の1分体操』(海竜社)、『ひかる先生のやさしい体育』(PHP研究所)などがある。

【ライタープロフィール】
田口久美子(たぐち・くみこ)
1965年、東京都に生まれる。日本体育大学卒業後、横浜YMCAを経て、1989年、スポーツ医科学の専門出版社である(有)ブックハウス・エイチディに入社。『月刊トレーニング・ジャーナル』の編集・営業担当。その後、スポーツ医科学専門誌『月刊スポーツメディスン』の編集に携わる他、『スピードスケート指導教本[滑走技術初級編]』((財)日本スケート連盟スピードスケート強化部)などの競技団体の指導書の編集も行う。2011年10月「編集工房ソシエタス」設立に参加。『月刊スポーツメディスン』および『子どものからだと心白書』(子どものからだと心連絡会議)、『NPBアンチドーピング選手手帳』((一社)日本野球機構)の編集は継続して担当。その後、『スピードスケート育成ハンドブック』((公財)日本スケート連盟)の他、『イラストと写真でわかる武道のスポーツ医学シリーズ[柔道編・剣道編・少林寺拳法編]』(ベースボール・マガジン社)、『日体大ビブリオシリーズ』(全5巻)を編集。現在は、スポーツ医学専門のマルチメディアステーション『MMSSM』にて電子書籍および動画サイトの運営にも携わる。